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優しい記憶の外側へ

 私は前を向くことにこだわりすぎかな、と思う。
 時には周りの人の助言を振り払って、ぐんぐん進んでしまう。

 立ち止まると小さな現実に封じ込められそうな気がして、進むとその外側へ踏み出している実感がある。

 ふと、子どもの頃遊んでいた「人生ゲーム」を思う。いま考えると、とてもふしぎなSTARTからGOALまでの旅路。

 いろいろな職業に就くことや、ある日とつぜん大富豪になることも破産宣告を受けることも信じられなかった。少なくとも私の周りの大人たちは、誰ひとりとしてそんなドラマティックな人生を送っていないように見えた。職業はたいてい生涯に一つ、お金はこつこつと貯めるもの。

 一つだけ人生ゲームの好きな点をあげるなら、そこには「往路」しかないということだ。同じ地点に戻ることがあるのならそれは「〇マス戻る」というコマンドによるもので、私はその指示を受けるとがっかりしたんだ。ここからやり直すなんていやだと私はぶーぶー文句を言った。それは、いまの現実でもおんなじ。

 もう外国には住まないの、とか、英語の仕事はしないの、と人に言われるたび、その期待を裏切る自分にこっそりと拍手喝采している。もちろん、その時がきたら、そうなることもあるだろうけれど、いまは他のことに夢中だから。

 過去のことを書くことは多いけれど、ノスタルジーに生きたくはないな、と思っている。

 前を向くとうしろは森になる。その甘美な森には私だけのための宝箱がたくさんあるから、すこし心が弱った時に飛び込んでいく。あるいは、逆に心を強固にして、あえて挑戦してみようという気分になった時とか。
 
 過去は私にとって内側で、だからこそ外側にあるものが未来なのだと信じている。となると、まだ知らないことがぜんぶ未来だ、ということになるんだろうな。その雄大さを想う時、自分の居場所を安定させようと努める時間があるなら、次の場所へひょいっと飛び移って、違う景色を見てみたいと思ってしまう。

 正しいとか正しくないとか、そんな冷静さなど忘れて。

 誰かの底深い心の場所を、触りながら震わせていくような仕事をしたい。そのためには、自分の森を深く冒険することだけでは、まだ、きっと足りない。誰かに会いましょうと言われたら、ほいほいと出かけてしまう。知らない物語をねだろうとして。

 社宅の四畳半に集まっていた子どもたちは、皆どこかへ行ってしまった。空っぽの陽だまりに、糸のような埃が美しく泳いでいる。それはとても平和的に作り変えた優しい記憶の一つだけれど、そこに戻る「復路」がないことを、とっても幸福に思う。

 いま、だれの地面にも、コマンドは書かれていない。でも、だからこそ現実の人生は、思った以上にドラマティックではないでしょうか。




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 いつも読んでくださってありがとうございます。誰かが喜んでくれるかもしれない、自分が確かに持っているものとは何か、差し出せるものとは何か、ぐるぐると考えながら書いていますが、きっとそれは、例えば毎朝の「おはよう」だってそうだよな、と思ったり。

 ステキな金曜の夜を!



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