子どもの頃の あこがれのこと
はじめて憧れた外国は、スクリーンの向こう側だった。
木曜と金曜の夜、私は妹とテレビにくぎ付けだった。魔法にかかったような、あっという間の映画の時間。自転車で空をとんだり、死体探しの旅に出たり、大人たちを出し抜いて財宝の船を獲ったり。映画の子どもたちは靴のままソファで犬とじゃれあい、こっそりとサンドウィッチをつくって夜の旅に出る。とっても、うらやましかった。かっこいいなあ。
最初に憧れたことの記憶って、きっと誰にでもあるんだろう。
今でもその時の恋みたいな気持ちが、本からはみ出した栞のように記憶の目印になっている。そこにはたしかに魔法があって、世界はいつもより輝いて見えた。
それらは単に心ときめく冒険の物語では終わらなかった。さり気ない細部の情景もたまらなかった。
ポケットに丸めたくしゃくしゃの紙幣、洗わずに齧るくすねたリンゴ、友だちの家に泊まりにいくとママについた嘘。などなど。
彼らは大人のことも呼び捨てにする、「ちいさな大人」だった。
できるなら、彼らになりたい。彼らのことばで喋ってみたいと思っていた。それはつまり、早く大人になりたかったということなんだろうけど。
きっかけをくれたのは、私の周りの「ちいさな大人」だった。ねえ、大学卒業したら、一緒に海外へ行こうよ。(その子は、夏休みのホームステイ先で失踪事件を起こした有名人だった)
そんな派手な女の子と、おとなしい私が友達になっていたのは、あの魔法がかろうじて続いていたからかもしれないな、と思う。(結局彼女は、私との旅からも離脱してしまったけれど)
海外生活を体験し、やがて多くの外国人と一緒に働いた。現実を知るにつれ私の憧れていたあらゆるものごとの魔法はひとつひとつ解けていき、そのたびにがっかりしたり大笑いしたりした。
ただ、世界はすこしだけその秘密の扉を開いてくれた。あの四角いテレビにつまっていた、心をドキドキさせる魅力、これから楽しいことしか起こらないというハッピーな予感の正体のヒントを。それは、彼らのことばの中にあった。
*
私がブルーというものを彼らはグリーンだという。
彼らがブルーだというものは、じつにたくさんある。
"Blue"
"Blue"
"Blue"
ことばとことばを翻訳するところは、一面綿毛のようにまっしろで、そこには無限の「自由」が広がっている。
ああそうか、となんだか腑に落ちた。
私たちはいつだって世界中を翻訳することができる。それは体験に似ている。あるいは再定義というのかもしれない。いずれにせよそれは、今日をいつまでも更新しつづけることができる希望として、世界を輝かせているのだと思う。
*
懐かしい映画がテレビで始まると、相変わらずワクワクした気持ちでソファの前に座る。少女の頃の甘やかな憧れを、今度はすこしほろ苦い気持ちで包みながら。
ほろ苦いのは、自分がその憧れを追い越してきたからかもしれない。
でもそこに置いてきた栞は、まだそのままにしている。
この時空のどこかにいる少女には、ずっときらきらとした魔法にかかっていてほしい。現在進行形で、分からないことを、いつまでも追い求めていてほしい。
きっとその子は、いろいろなことを分かったつもりになった私のところへ時々やって来て、内側からノックをしてくれると思うんだ。
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いつも読んでくださってありがとうございます。ちょっと古めの映画(80'かな?)を、何度も何度もテレビで観ていたような。
(追記 12/15:本文の一部がエラーになっていて、正しく表示されていなかったみたいです。スキを押して下さった皆様ありがとうございます。修正して、再公開しました)
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