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風味絶佳のプチフール

【プチフール/petit fours】… 食後のデザートとして出る、一口サイズの小さなお菓子類。

その人が家に来たとき私は手が離せなかった。代わりに夫がその人に会ってひととおりの挨拶を済ませたらしい。

「お隣さん、今日、引っ越しをされるみたいだよ」

そう聞いて、私は驚く。「どうして声をかけてくれなかったの」

「だって、あなたは忙しそうだったからさ」

お隣さんからいただいたという紙袋を、夫はテーブルの上に無造作に置く。クラシックな柄の紙袋を開けてみたら、一通の手紙と四角い箱が、それぞれ上品な佇まいで出てきた。

かすかに雨の匂いがする夕方。

空はうす暗く、黒い鳥たちはいつもより低いところを急いで飛んでいく。この空をくぐり抜けると、雲の切れ間のずうっとむこうに、まだ私の知らない晴れの国があるのかもしれない。

夕食後、私は手紙を開封する。とても薄い封筒と便箋で、水に浮かべたら音もなく溶けてしまいそうだった。その四つ折りを開くと、細く淡い、砂糖菓子のような文字。

◯◯◯号室の千田です。
このたび、×××へ引っ越すことになりました。
在宅中は、多岐にわたり、たいへんお世話になりました。とても、感謝しております。
どうも、ありがとうございました。これからも、どうぞお元気で。
これにて失礼いたします。
          千田


手書きの文字はまだほのかな体温が残っているようで、私は少し寂しくなる。もう一度、ゆっくりと読み返す。

お隣さんは老夫婦で、ほとんど姿を見かけることはなかったし、親しいつきあいをしていたわけでもなかった。どちらかというと、人づきあいを望んでいないように見えた。

それとも、と私は思う。

———私が少々変わり者で、出来れば誰とも関わらないで過ごしたいのを見抜いていたのかしら。

箱の中身はいくつもの種類の焼き菓子で、大事な宝石をおさめるようにそれぞれパラフィン紙にくるんで仕舞ってあった。香ばしく焼き上げられたバターと小麦粉の香りが鼻をくすぐり、夫はすぐに手を伸ばそうとする。私は、まだだめ、と言って、ゆっくり品定めを始める。

ヘイゼルナッツ・クリームをはさんだ薄いビスキュイ。チョコレートでドレスアップしたマドレーヌ。銀のマザランをまぶしたアイシング・クッキー。あざやかなジャムを中央に固めたサクサクのパイ……

一つの箱の中にそれだけのお菓子を取り揃える手間と、その出来ばえの美しさを私はじっと見つめる。

白いパラフィン紙の凛とした境界線を。その完璧な隙間のなさを。舌の上でかさね合わされる風味絶佳を。

ベランダへ煙草を吸いに出ていた彼は、戻ってくるなりクッキーをかっさらって、口の中にぽいと放り込む。

「まだだめって言ったのに」

「ちょっと雨が降ってきた。寒いね」

ちっとも関係のない返事で終わるのは、いつものことだ。

ちぐはぐに、時にはお菓子のようにぴったりと隙間なくくっついて、誰かと一緒に生きる日々は続いていく。

去っていった人たちと、いまここにいる私たち。いつか、どんなふうかはわからないけれど、私たちもまたここを出て行くことになるだろうと思う。

ここに来た時と全く同じように、大きな抗いようもない流れに押し流されて。例えば結婚する、などという出来事をきっかけにしたあの時ように。

どんなに愛や充実で溢れる暮らしを望んでも、平凡で忙しい一日はみるみるうちにチーズのように溶け出し、冷えてひとかたまりに固まる。

なにげなく過ぎ去った私たちの時間はいつしか、コース料理の最後を締めくくる可憐なプチフールに焼き上がるだろうか?

ここを出て行く時、もしもそうなると思えるのであれば、私も誰かに———出来れば私がここに住んでいたことを知ってくれている人に———かわいい焼き菓子のアソート・セットをそっと託して去るのもいい。

誰かと生きる愛しさも息苦しさも一つの箱に詰め込んで。お菓子のひとつひとつに過ぎ去った日々をかさねて。
素朴な幸福を祝う、ささやかな証として。

私はもう一度、四角い箱につめられた、誰かの過去の物語をのぞき込む。優しい手紙は私の手のひらの上で、踊るようなささやくような音を立てる。





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読んでくださってありがとうございます。これまでにnoteに書いた文章で同じ雰囲気のものを、いくつかピックアップして、まとめてみたいなと思ったりします。読んでくれる人いるかな。

◇なんでもない私のつぶやき、


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