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短編小説 「桜の降る日は」

ドアは、いつも目の前で閉まる。

たとえば電車に乗り込もうとすると、必ず目の前でドアが閉まる。お店でドリンクを注文しようとすると、「先ほどのお客さまで売り切れました」と言われる。やっとのことエレベーターに駆けこむと、定員オーバーのブザーが鳴る。

私はちょっと不器用で、運が悪い。

だから、去年の夏の終わり、恋人の修(おさむ)が部屋から出ていった時、失意のどん底でぐしゃぐしゃに泣きながらも、心のどこかでは「そんなもんだろうな」と思っていた。営業部のエースと呼ばれている修が私の恋人になるなんて、そもそも何かの間違いだったのだ。

あれから半年が経つ。

ありきたりだとは思うけれど、修との思い出の品々を処分したり髪を切ったり、好きな映画やドラマを観まくっているうちに、いくらか気分が上向きになった。

ふわふわ甘ったるい恋愛気分を捨て、思い切って転職に挑戦したら、通っていた英会話学校の事務スタッフに採用された。ちょうど退職者が出たというところで、私にしてはめずらしく運の良い話だった。

もう、社内で気まずく修と顔を合わせる必要もない。それは給与や待遇のことよりも、大きな安堵を私にもたらした。

正午前の大通りを、バスは街の中心部に向かっていく。

緊急事態宣言のため、正式入社してからもオフィスには数度しか通勤していない。急にはじまりを告げた春に、クロゼットからひっぱり出してきた服がむずがゆいような気がした。久しぶりの出社に緊張する。

バスに揺られながら、ふと手のひらを広げ、何の飾り気もない10本の指を眺める。

これからは、本当に必要なその時が来るまで、指輪はつけない。それは、もちろん感染病対策のための配慮でもあるし、ちょっとした決意でもある。自分の内側の世界だけに浮かれていた私は、もう卒業だ。かすかに痛む心の奥から、窓の外に目を向けた。

過ぎていく景色の中に、一瞬、淡い桜色の風が流れる。

———いるはずない、か。

桜の木を見かけると、ついあの男の子の姿を探してしまう。

彼に出会ったのは一年前。まだ世の中がこんなふうになる前のことだった。

「ねえ、こっちこっち」

ハンドメイド雑貨や古本のマルシェが行われていた、桜並木の公園。白い雲みたいな桜の下、手招きして、私を誘う男の子がいた。

男の子といっても、20歳くらいだろうか。あざやかなピンクの髪色が、明らかに周囲から浮いている。

誰だろう。少なくとも、私の方に覚えはない。あたりを見回して確認するけれど、やっぱりまっすぐに目が合う。

「何か用ですか?」

「いいから、いいから、ねっ」

「え……」

私が足早に通り過ぎようとするのをさえぎって、彼は私の手をとり、簡易テーブルのブースへ誘った。白いテーブルクロスにばらまかれた木もれ日の上に、はらりと桜の花びらが重なる。桜はいまが盛りの時だ。

テーブルの上に立てられた小さな手書き風のボードには、「あなたの手相を読みます。15分/1,000円。ささやかな幸運のアドバイス付き」とあった。

私はなぜだか、昔からこういうのにも引っかかりやすい。

「おねーさん、縦に長いキレイな手ですね。こういう手は、人生の後半にいいことが待ってますよ。今日は特別、千円まけます」

調子のいいことを言って、彼はにっこり笑った。お代が千円なのに、千円まけるとはどういうことだろう。質問しようとすると、もう私の手のひらを凝視している。

「ふむふむ。なるほど。恋愛中ですね〜、いいなあ……」

そんなの薬指の指輪ですぐにわかることでしょ、と心の中に文句をつぶやくも、すっかり彼のペースに巻き込まれて、引っ込みがつかない。

指輪は、お気に入りのジュエリーショップで、修と一緒に買い揃えたものだ。「ミルグレイン」というデザインで、さらに女性用のは外側、男性用のは内側へ、小さなダイヤがはめ込まれている。0.1ctだけど、その慎ましやかさがいい。アクセサリー嫌いな修もこれならと了承してくれた。

「来年あたりかなあ、転職の時期ですね。知能線が水星丘に枝分かれして伸びているから、英語活かした方がいいですよ。それに、深〜い運命線が月丘から出てる。いろんな国の人と一緒にする仕事、向いてます。あと感情線上の島、気になるなあ…… 視力が落ちているかもしれませんから、お大事にしてください」

ちっともわからない言葉ばかりだ。でも妙に私のことを言い当てているような気もする。

よく見るとアーモンド・アイが魅力的な子で、笑うと頬にえくぼが出来た。

気になる。よくある駅ビルの占い館などではなく、どうしてこんなところで客引きしているのだろう。「手相占い」じゃなくて「手相を読みます」という表現も一風変わっている。

「いつも、ここでこんなことしてるの?」

「あ、ええ。まあ」

彼は急に口ごもった。「じつはお客さんの手を読むのは、本当に久しぶりで」

「どうやったらお客さん来てくれるかなあと考えてたら、おねーさんが向こうから歩いてきたんですね。桜の花びらを踏まないようにして歩いていたから、ぜったいこのひとはいいひとだろうなって。それで勇気を出して」

なるほど、占い師は人間をよく観察するらしい。セールストークも上手だ。でも、いいひとと言われて悪い気はしない。

「おねーさん、手を軽んじてはいけませんよ。人の手には、全てが刻まれています。生まれてから死ぬまでの設計図といっても過言ではないのです。……あ、すみません、話を壮大にしすぎました。でもこれだけでは食っていけないので、蕎麦屋でバイトしてますけど」

蕎麦屋のユニフォームに身を包んだ彼を想像すると、可笑しくなった。おかしな取り合わせだ。手相、蕎麦、そして目の覚めるようなピンク色の髪。

「あ、この髪は、地元に帰る前に、何か思い切ったことをしようと思って。全く稼げないし、この街に必要とされている気がしないんですよねー」

彼は私の視線を察したのか、そんなことを言った。

今まで出会ったことのないタイプの子だな、と私はつくづく思った。もしかしたらそれが理由で、人知れず苦労してきたのかもしれない。

彼は両手の人差し指と中指をクロスさせ、私の目の前で小さく振った。”Keep your fingers crossed”、幸運を祈るという意味のサインだ。

「おねーさんのこと、僕は絶対に忘れませんよ! いつでも応援しています」

絶対に忘れないなんて、またまた……。反応に困って、私は曖昧な表情を作った。やっぱり、ちょっと変わった子だ。でもなんとなく憎めない。なぜだか応援したい気持ちにさえなっていた。

お代を渡すと、彼は本当に千円を返してきた。どうしようかと迷ったが、彼はもう受け取る気はなさそうだった。

「いつか、緊急時に使ってください」

彼はまたにっこりと笑った。

駅前でバスを降りたらすぐ、会社からのメールを受信した。「朝の会議で急きょ決まったのですが、社員の在宅勤務期間が延長されることになりました。今日は出社しなくてよいです」と書かれていた。

「ごめんなさい、きっともう近くまで来られてますよね。ありがとう」メールの末尾に添えられた上司からの一言に、ホッと癒される。

空はまぶしく、このままくるりと家に引き返すには、あまりに素晴らしい春の一日だった。メール返信を済ませ、さて、これから、どうしようかと考える。おりしも緊急事態宣言が解除されたばかりで、街は解放感に包まれていた。

こんな都会のまんなかでも、どこからともなく桜の花びらが降ってくる。偶然、目の前に一枚ひらひらと翻るのを、手のひらを広げてキャッチした。

この花びらをつかむのは、きっと奇跡的な確率なんだろう。この世界で、たった一人の特別なひとと巡り会うのと同じくらい。

———修も私のことを好きになってくれたとわかった時、奇跡が起こったと思った。でも結局、うまくいかなかった。

ピンクの髪の占い師さんは、恋が終わるなんて教えてくれなかった。もし知らされていたら、結果は違ったのだろうか。

思えば、唐突な終わり方だった。急に部屋を出て行くなんて、直接的な理由くらい聞いてみれば、と幼馴染の友だちに言われたりもしたけれど。

心の奥の一点に固く仕舞い込んだはずの感情が、胸の中でつぼみのようにふくらむ。ひとつまたひとつと、重なりあったまま開きはじめる。

恋は、どこがはじまりで終わりなのだろう。好きな気持ちがあるのなら、まだ終わりではないのではないだろうか。

多少なりとも自分をアップデートしたような気がする今なら、毎年咲く桜のように、もう一度はじめることができるような気もするのに。

いつだって私は、気づくのが遅い。いつだって、ドアは目の前で閉まる。

握っていた花びらを風に流し、背すじを伸ばして再び歩き出した。

そうだ。何か美味しいものでも食べて帰ろう。

そう思ったのが先か、甘い香りが鼻先をくすぐったのが先か、通りがかりに、蕎麦屋ののれんが見えた。記憶の中で、蕎麦とピンクの髪がふいにつながる。そういえば、あの子はどうしているだろう。もう地元に帰ってしまっただろうか。

気づけば、ふらりと蕎麦屋ののれんをくぐっていた。

「いらっしゃいませ」

天ぷらや出汁の香りがたちこめる中、案内されたのは、飛沫防止の白いパーテーションに仕切られたカウンター席だった。肩をせばめて着席すると、隣の席から蕎麦をすする小気味よい音が聞こえてくる。

少々狭いけれど、こうしてプライベートスペースが確保されるのはありがたい。

「あの、この『冬季限定』っていうの、まだありますか?」

すぐに来た店員さんに、メニューの「ゆず風味鴨南蛮そば」を指さしながら訊いた。

「ありますよ。お客さん、運がいいですね。これ、今日が最終日なんですよ。もう桜の季節だしね。良かったね、すべり込みセーフ」

愛想のいい女のひとだった。ゆずかもなん一つ! の元気な声に乗って厨房に注文が通る。自分でも単純だとは思うけれど、お昼どきの活気にもつられて、いくらか気分が上がってきた。

待っている間、すでに習慣になっている通り、消毒ジェルを手に塗り込む。お店の入口でも消毒はしたけれど、私は保湿効果の高いジェルを持ち歩き、乾燥が気になるたびに塗りなおすことにしている。

手相を読んでもらった日以来、私は手をていねいに扱うようになった。

あの占いは、なんとなくだけど、当たっていた気がする。彼が言っていた通り、入社前の健康診断で視力が著しく低下していることがわかった。それに、社内で成績優秀な修に少しでも追いつかねばと、こっそり英語を勉強していたことを、あの時彼はどうやって見抜けただろう?

「手を軽んじてはいけませんよ。人の手には、全てが刻まれています」なんて言っていたのが印象的で、あれ以来、ふとした時に他人の手を見る習慣すらついてしまった。

その時だった。

ほんの一瞬の出来事。正面の壁によせて置かれていた七味の瓶を、さっと取っていった手を見た。

右のパーテーションの隙間から伸びてきた、その手。

男のひとにしては指が長くほっそりしていて、爪はきれいな楕円形。見覚えがあるどころではなく、忘れるはずのないその手の薬指には、あのミルグレインの指輪がつけられていた。

———修?

心臓が早鐘をうつ。鞄からさっと眼鏡を取り出した。途端に視界があざやかになり、すみずみまでよく見通せる。まさかこんなところで、偶然隣り合わせになることなんてあるだろうか。

どうやら食べ終わったらしいそのひとは立ち上がり、伝票を持ってレジに歩み寄った。高鳴る鼓動を誰にも気づかれないよう、そっと顔を上げてもう一度よく見る。背中を見ただけで確信した。間違いない。私が誕生日にプレゼントした財布で勘定を済ませ、ひらりとドアの外に出ていく。

私はとっさに千円札をテーブルに置き、立ち上がった。愛想の良い店員さんの、「あの、おそば……」という声が背中を追いかけてくる。ごめんなさいごめんなさい! と何度も胸の内で謝りながら、雑踏の中の一点を見つめる。

駆けよれば追いつける微妙な距離を、つかず離れず、糸に引かれる風船のようについていく。春の陽射しが、彼の背中をチカチカ光らせる。修がふり向きそうになるたびに、びくっとしてしまう。

今日は平日なのに、どうして私服なんだろう。ひとりで蕎麦屋に入るひとだったなんて、全然知らなかった。なんだか少し痩せたような気がするけれど、仕事が忙しいのだろうか。いや、それより何より、どうして今、私と揃いの指輪をつけているのだろう……

修のあとをついて環状線の駅にもぐりこみ、改札を通る。

ホームにすべり込んでくる電車に、颯爽と修は乗り込む。いつも呆れるほどあざやかに好機をとらえて、すいすいと私の先を行ってしまうひとだ。そして私はといえば、どうせ、いつだって間に合わない。

行ってしまう。ああ、でも、ふり向かれたら、どうしよう。

追いかけているはずなのにそんなことを思うなんて、自分でも矛盾しているとわかっていた。心の半分では、そのうち電車のドアが閉まると期待さえしている。その証拠に、一歩前に進みさえすれば乗れる電車の前で、私はぐずぐずと立ち止まっている。

ふと向かいのホームに、あざやかなピンク色が見えた。

あ。

ピンクの髪はあの時より少し伸びている。はっきりとしたアーモンド・アイと目が合った。

彼は一瞬だけマスクを外し、顔に懐かしさの色を浮かべて、にっこり笑った。それから人差し指と中指をクロスさせてサインを作り、大げさなくらいに腕を伸ばして、振ってみせた。

Keep your fingers crossed. 幸運を祈る。おねーさんのこと、いつでも応援しています。

春の陽気が背中を押す。

「ドアが閉まります。ご注意ください」

アナウンスの声が終わらないうちに、えい、と電車に飛び乗った。

「発車します」

ドアが閉まると同時に、桜の花びらが一枚、するりと車内にまぎれ込んできた。






<おわり>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』4月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「はじまる」。あたらしい生活がはじまる春の季節にぴったりな、6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。

#文活 #この春やりたいこと


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