いつかやり直そうと思う時が来るなら
途中退場は挫折だろうか。
名刺に「ライター」と上書きして一年くらいは、ずっとそんなことを考えていたような気がする。会社を辞めてしまったことに関する罪悪感のようなものが、心のどこかにあったのかもしれないけれど。
私自身まだサーカスの綱渡りみたいな心境が否めないし、ときどき真っ逆さまにネットへ落ちたりもしているけれど、どんな媒体の何であれ、書いたものが喜ばれるのはとてもうれしいことだし、何よりも「生きているな、私」という実感がひりひりと湧いてくる。誇らしい気持ちになることさえある。
だから、学生のころから憧れていた物書きの仕事に就くことを、あきらめなくて良かったと思う。湖底に沈めていた夢を、潜って探し回るのにずい分時間がかかった。でもやっぱり間違いなかった。私は、ちいさな私を見つけたと思った。そのちいさな私が、新しい光のさす方向についてきてくれたのだ。
◇
途中退場は挫折ではない。「進路変更」だと思う。
「生きているな、私」などと感じなくても普通に毎日の生活をこなせる人々は、誰かの人生の進路変更を「途中退場」とか「ギブアップ」というネガティヴな言葉で片付けてしまう。
すべてが弱者の「挫折」であると切り捨てる人もいる。そのように定点観測で現状を守っている人たちが、思いの外たくさんいるんだろうと思う。
そして悲しいのは、そういう人たちに惑わされ流されて、あきらめている人も多いということだ。ちいさな自分を過去に置き去りにした悲しみを、無意識に他のものに置き換えて。
ただ、私は思う。それでもいい。
いつかやり直そうと思う時が来るなら。
湖底に沈んでいたコインが磨き上げればまた光るように、そこに在るものの価値がほんものであればそれは古くても汚れていても再び意味を持つ。私たちが自分の意志で選びとっていくものは、きっとみんなそうだ。
空高く風薫る秋の中に、言葉にならない悲しさを感じるなら、もしかしたらそれは魔法なのかもしれない。静かな過去の澱に佇んでいる、ちいさな子どものことを思い出すための。
たくさんの子どもたちが報われるといいな、と思う。私たちは、何度でも大人になれるのだから。
◇
それでもまだ、私は私の手を離してさらにどこかへ駆け出して行ってしまうかもしれないとふと考えることがある。体も心も季節や時代に合わせてその成分調整を行うことが必要だし、人との出会いや新しいインスピレーションは素晴らしいものだから。
そして、人生をこの道だと決定するのは、最後の瞬間に取っておくべき幸せの一つだとも思っている。
Hey, you will get beautiful spectaculars reflecting all your life in the end– if you remember seizing any chances coming back.
---
読んでくださってありがとうございます。去年の秋、こんなことを書いていました。そういえば最近、全然イラストを描いていないなあ。
Twitterもやっています。お気軽につながっていただけたら。
■ 共著『でも、ふりかえれば甘ったるく』(㈱シネボーイ/PAPER PAPER)
■ ZINE、メディアライティング、その他のエッセイはこちらから
■ リトルプレス『アイスクリームならラムレーズン』、在庫僅少となりました。
サポート、メッセージ、本当にありがとうございます。いただいたメッセージは、永久保存。