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掌編小説 「残り香」

銀杏イチョウ駅で、久しぶりに徳尾とくおくんと会った。

これから22時ちょうどの列車に乗るのだという。駅前広場のすみの喫煙所で、ひとり煙草を燻らせていた。

「ずいぶん懐かしいね」

ちょっと目が合っただけなのに、すぐに私の名前を呼んでくれたのでびっくりした。顔も声も仕草も、記憶の中と同じ徳尾くんだった。何年ぶりだろう、と頭の中で足し算や引き算をしてみる。すっかり変わってしまった私を覚えていてくれたなんて、ちょっと信じられない。

「本当に。こんなところで会えるなんて思わなかった」

「ぼく、『異星人』だから」

「そうだね」

自分たちだけにわかるジョークで、私たちは笑い合う。

徳尾くんは仲間内でいつも浮く存在で、一緒に遊んでいてもふと気づけば離脱しているなんてことがザラにあった。「あいつどこ行った?」と誰かが言えば、「まあ、異星人だからさ」と誰かが答えた。

その不思議っぽいところが逆に魅力的で、恋人はとっかえひっかえだった。だから、私の入る幕はなかった。

ある時、誰にも理由を告げず何週間も大学を休んだあげく、服はボロボロ、髪はボサボサで帰ってきた。

「星に還ってきたんだ」

と、実家に帰省してきたみたいなノリで徳尾くんは言った。体じゅう野良犬みたいな匂いをさせていて、私たちは笑った。きっとどこか遠いところへ旅していたのだろうと、みんな思っていた。

「懐かしいね。そういう紙の煙草まだ売ってるんだ?」

徳尾くんは、セイラムの煙草を吸っていた。

「うん。コンビニで。復刻版なんだって」

優しい夜風が木の葉を連れて、アスファルトを撫でていく。赤煉瓦の駅舎に配された灯りが、地上の目印はここだと、月のない空に向かって光っている。

「何時の便?」

徳尾くんは、すこし遠慮がちに訊いた。

「私のは、23時」

それきり会話は途切れた。話すことがないのは当然だった。表面だけ見れば、私たちの関係に深い接点など無いに等しかった。その後の私に起こった変化についても、彼は何も知らないだろう。穏やかで優しい夫のことも、結婚十年目で生まれた息子のことも、それから、見つかった時にはかなりステージが進行していた病気のことも。

「誰に会いに来たの?」

ふっ、と透明な煙を吐き出しながら彼は訊いた。

「息子。よーちゃんっていうの」

すこし間を置いて私は答えた。

「ちゃんと会えた?」

「うん。大きくなってた」

今年6歳になる息子はまだ、私のことを覚えている。生まれつき心と体が弱くて、今までもこれからも心配事が絶えない。でも、私にとって世界中の誰よりも愛する対象であることは、未来永劫変わらないだろうと思う。

子どもを持って知ったのは、人間は、愛する本能を持ってこの世に生まれてくるということだ。「ママ、ママ、ママ大好き」と、四六時中べったりくっついてくる息子は、「惜しみなく愛する」ことをこの世で最大の幸福と感じていた。それは飲食や睡眠と同等の、生命維持のための活動であるかのように見えた。

とてつもないその愛を全身で受け止める時、その体温を感じ、肌の匂いをかぎながら思った。人はこのようにして、ままならない人生を少しだけ好きになれるのだ。どこまでも孤独な自分自身を、ほんのひととき抱きしめることができるのだと。私はその幸せを味わうことができた。数年間だけ。いや、数年間も。

徳尾くんがものすごい失恋をして死んだって聞いたのは、大学卒業から一年後だった。

人づてにお通夜やお葬式の話を聞いて、徳尾くんは異星人なんかじゃなくて、わたしたちと同じ地球の人間だったんだと気づいた。

ごめんね。

生きているうちに、あなたは、あなたを抱きしめてあげられたんだろうかって、そのことを、私はずっと訊きたかった。

目の前の徳尾くんは、微笑みに似たかおを浮かべている。物静かな所作のせいで年上に見えていた彼は、今こうして眺めると年相応の若者に見えた。彼も私も、時間の長さというよりは、起こった物事によって変わったのだ。あるいは、それがもたらす記憶の作用によって。

「じゃあね。そろそろ行くよ。今夜、話せてよかった。元気で」

徳尾くんは煙草を灰皿に捨て、立ち上がった。22時ちょうど。まっさらの煙草は彼の手を離れてポトッと地面へ落ちた。その、白く細長い煙草の輪郭に目をとられ、ふと視線を上げると、彼の姿はもうそこにはなかった。かつて彼の心をとらえた遠い夜の駅へ向かって、もう列車は発ってしまったのだとわかった。

もっと、話したかったな。

そのうち傍に誰か別の人が来て、煙草を吸い始める気配があった。やわらかな風が通り抜け、煙草の匂いと夜の闇をかき混ぜる。一時間後、それが徳尾くんのセイラムの残り香なのか、別のものなのか私にはもう区別できない。

亡くなった人は、誰かが「会いたい」と思った時、少しだけ蘇る。そんな幻想がいくつもいくつも混じり合い、溶け合いながら今日の風に流れていく。空気はあらゆる幻想を取り込んでこの世界を静かに透明に満たし、あとにはただ、抱きしめた記憶だけが残るのだ。




<おわり>

いつも読んでくださってありがとうございます。お盆の時期に書きたかったものですが、9月になってしまいました。

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