インスタントコーヒー・ビンテージ
「これ」
朝、コトリとテーブルに置かれた瓶は、未開封のインスタントコーヒー。片付けをした時に棚の奥から出てきた、と彼は言う。
「賞味期限切れなんだ」
彼はいつだって多くの説明をしない。私もいつしかむやみに質問をしなくなった。それなら捨てるしかないのにとぼんやり考えながら、でもそれを言葉にはしないでおく。
私と一緒に暮らし始めてから、彼はインスタントコーヒーを飲まなくなった。理由はおそらく私がインスタントコーヒーを飲まないからだ。粉をお湯にといたものなんてちっとも美味しくなんかない、しつこくそう言い続けていたら、いつしか彼はスーパーのカゴにインスタントコーヒーの瓶をそっと入れることをしなくなった。
「車にガソリンを入れておいてもらえると助かるな」
そう言い残して、彼は会社へ行った。
夏の週末、私たちはよく海までドライブに行く。今日は金曜日だから、天気がよければ明日も海へ行くのかもしれない。
——— さあ、ここで今日のクイズです。このインスタントコーヒーを私はどうするべきでしょう?
シンキング・タイム。
ひとりになった私は、テーブルの上に置かれたままの瓶を見つめる。
答えはカンタン。「捨てておいて」と、彼は無言の声でそう言ったのだと、私は推測する。
ささやかな愛着を感じたものを彼は、どうしたって捨てることができないのだ。
だから十年前の古風なスーツはいつまでもクロゼットの中に吊るされているし、タバコの空き箱は部屋のすみにどんどん積み上げられていく。
それから私はすこし笑う。すべては独りよがりの答え合わせだと気づいて。
誰かの分からないところを分からないままにしておくことが果たして愛なのか、それともただの怠慢にすぎないのか、私はその中間地点で、たえずゆれ動いている気がする。
空の瓶のラベルをなにげなく見た私はハッとする。
賞味期限の印字は、数年前の3月15日。
私の誕生日。
——— それは、ただの偶然なのだろうか?
◇
北欧に「フィーカ」という言葉がある。
それはお菓子と飲みものをゆったりとした気分で楽しむティータイムのことだと、どこかのカフェのマグカップに書いてあった。
私たちには、すこしだけフィーカが足りない。お菓子と飲みものだけじゃなくて、言葉を交わし合うためのフィーカが。
瓶を開封する。賞味期限切れのインスタントコーヒーがキッチンのゴミ箱に収まっていく。瓶の中に閉じ込められていた長い長い時間が、音もなく香りもなく直線で下にこぼれ落ちていく。
頭の中で大人の算数をしてみる。私たちはいつからお互いのことを、ただ無邪気にゆっくりと「賞味」するのをやめてしまったのだろう?
◇
古き良きものが時を重ねて、価値を深めていくことをビンテージと呼ぶなら、過ぎ去っていく私たちの時間もまた、こんどは大切に優しく保存して、いつしかビンテージと呼べるものになればいいなと私は思う。
◇
夕方、買い物を終えて、ガソリン・スタンドに立ち寄る。
給油口にノズルをつっこんで引き金を引くと、デジタル表示がものすごい勢いで変化し始める。みるみるうちにレギュラー・ガソリンが満タンになってゆく。
油の匂いを押し流すように突然ビュウと風が吹きつけ、私のシャツの裾がはためく。私は考えていたことを一瞬忘れる。
ものすごいスピードで風は夏の章をめくっていく。その章に書いてあることなど、ほとんど読みもしないうちに。海、肌の熱さ、激しい音楽……、まだ記憶に新しい思い出も、どんどん後ろの景色の中に吸い込まれて、名前のないひとつの混沌になる。
風はいつだって無色透明で、なのに思い出をこんなにもたくさんはらんで流れ去っていく。だから時々泣きたくなるのかもしれない。
「インスタントコーヒー・ビンテージ」。
夏の終わりの風に吹かれて、私は章のタイトルみたいなことをなんとなく考える。助手席の買い物袋の中には、新しいインスタントコーヒーの瓶がある。
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