方言は直すものではない【沼へ②】

 前回は日本語について勉強するのにおすすめの本をいくつかご紹介しました。

 こういった本を読んでいくとき、知っておくと理解を促す効果があるかもしれないいくつかのことについて、今日は書いていきたいと思います。
 【〇〇〇】:命題、として、これにコメントをつけていく形で行きます。

【昔の標準語は京ことばである】
 徳川家康が都が江戸に移すまで、最も言葉の権威が強かったのは京都のことば。「標準語」、あるいは「共通語」。この概念は昔はないけれども、言うならば昔の標準語は京都方言でした。したがってそれは基準になる言葉、最も規範的な言葉であり、方言という扱いではなかった。だからこそ、京都のことばは「京都方言」あるいは「京都弁」と言わずに「京ことば」と表現します。以下の記述も京都人に怒られないようにそのように書きます。
 遷都後も、上方、すなわち関西、特に京ことばの力は強かった。江戸ことばにも京ことばはけっこう入ってきていて、江戸の人たちはそれを使っていたりしました。
 疑問点:関西圏の人たちは、中学高校の古文の授業中は、音読させられるときには東京弁のアクセント(以下東京アクセントと表記)で文章を読むのか?
 もしそうだとしたらこれはおかしい。なぜなら、古文の授業で習うような文章は大抵昔の京ことばで書かれており、当然、京ことばのアクセント(以下京都アクセントと表記)で読むべきものであるから。京都アクセントは昔に比べてけっこう変わってきているとはいえ、それでも、基本的な部分は一緒です。京都でなくとも、関西圏の人ならば、普段京阪式アクセント(要するに関西弁のアクセント)を使っているなら、わざわざ東京アクセントで読む必要はないはず。
 余談:僕の高校時代、古文の授業中に先生に当てられた時に、すらすら音読できなくて、そういう時に必ず小言を言う国語の先生がいたのですが、その先生だって東京アクセントで古文を読んでいました。それどころか、他の国語の先生にしても例外なく東京アクセントで読んでいました。なぜかはわかりません。おそらくアクセントが授業にとって本質的ではなく、文章の意味を読み取れるようにすることに主眼が置かれているためでしょう。アクセントまで指導していたのでは授業を円滑に進められないという実際的な問題もあったんでしょう。にしたって一言くらい「これは本当は京都アクセントで読むべきなのですが、そこまでやってたら面倒なので、東京アクセントで読みます」くらい言ってくれれば良かったのでは? というか国語の先生をやるくらいの人ならそれくらいわかっていそうなものだけど。
 小言はこれくらいにして。

【標準語とは言わずに共通語と言おう】
 「標準語」という単語は最近の日本語学ではあまり使わない。代わりに「共通語」と言います。「標準」という言葉に、「そこに合わせなければいけない何か、これ以外は誤りである」といったニュアンスを感じさせる、というクレームがついて、その代わりに、「どこでも通じる言葉」というニュアンスの「共通語」と言うようになりました。僕もこちらの言い方のほうが好きです。

【方言は直すものではない】
 方言は直すものではなく、訛りは取るものではない。アクセントのつけ方は日本の様々な地方毎に異なっており、そのつけ方のルールが異なる。個々の語彙の異なりは、たいていは古い京ことばが残っていることに由来する。独自語彙ももちろんあるけど。
 現在の共通語、すなわち東京アクセントの東京弁は、関東圏以外の異なるアクセントのルールや語彙を使っている人からすれば、習得するものであって、京ことばや大阪弁、うちなーぐち、東北弁などなどを直したり捨てたりして学ばなければいけないものではありません。ただ単に、別のアクセントのルール、語彙を学ぶだけ。
 せっかく、お父さんやお母さん、周りの友達とかが教えてくれた、体に染みついた言葉なのに、それが間違っていたり、直す対象になってしまうだなんて、悲しいじゃないですか。

〔アクセントの話が気になった方へ〕
こんなキーワードでググると色々出てきます。参考までに。
・東京アクセント
・京阪式アクセント
・垂井式アクセント
・N型アクセント
・無アクセント
東京アクセントだと、どこで音が下がるか(上がるかではありません)が重要なのですが、東北とかだとこれが逆に、どこで音が上がるかが大事だったりします。面白いですね。アクセントの分野は、まだちょっとまだ勉強足りてないんですけど、いろいろ聴いてみたいですね。

【余談というか補足?】
 東京弁を共通語として設定しなきゃいけなかったのは――今では想像しにくいですけど――日本がひとつの国としてまとまって、他県民同士でも意思疎通できなければいけなかった(もちろん今でもそうできなればいけない)からです。昔は今よりも遥かに封建的で、言い換えれば、人々がその土地土地に結び付けられていて、日本の異なる地方の人たちとの交流は限定的でした。つまり全国どこでも通用する言葉の必要性が薄い。加えてSNSはないしブログはない、どころネットもねー、電話もねー、バスは一日一度来る!(いやバスもねぇべよ!)
 しかし、黒船来航、明治維新、廃藩置県、日清戦争と、国の形を大きく変えて、日本という一つの国としてまとまって外国の勢力に対抗しなければいけなくなったとき、必要になったのが、意思疎通のための言語、すなわち共通語でした。この頃はまだ、例えば青森県民と鹿児島県民が喋っても、お互い何を言ってるのかよくわからなかったわけですね。

【国語の時間に習った文法と違う】
 日本人が国語の授業の時間に習った文法(未然形だの連用形がどうだの)と、外国人に日本語を教える時の文法は違います。日本人が習う国語の時間に習うアレは、「時枝文法」と言い、日本語を教える時の文法は「日本語教育文法」と呼ばれたりします。で、時枝文法は、日本語学研究者のあいだでは評判がよろしくないらしく、日本語学の本を読むと、たいてい教育文法で話を進めていたりします。文章の記述で突然、「ナ形容詞が~~~」「イ形容詞は~~~」「アスペクトが~~~」みたいな感じで出てきたりします。こちらの方が、現代日本語を分析するには都合がよろしいようです。
 そこらへんご心配な方は、前回の記事でも紹介しました『日本人のための日本語文法入門』(原沢伊都夫著、講談社現代新書)を読んでおくとよいかと思います。わかりやすいし、面白いですよ。

長くなったので今日はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?