方言習得論②――別に理由はいらない

 方言習得論を作るにあたって、とりあえず思いついたことを書いてみようと思う。

 方言を習得しようと思うと、すぐさまぶち当たる一つの問いがある。

 「なぜその方言を習得しようと思ったのか。その方言を習得する目的は何か」

 当たり障りのない答えで言えば、「その方言が話されている地域の人々の輪に早く溶け込めるように、言葉を勉強しようと思った」といったあたりだろうか。ごく自然な考え方である。旅行でその場所に行くことになった、あるいは仕事の関係でその場所に引っ越すことになった、とか。
 
 しかし、このように答えたらいけないのだろうか。

 「ただ方言自体に興味があったから」

 何か、いけないことのような気がする。旅行でそこに行くわけでもない、仕事でそこに転勤になったわけでもない。まして知り合いがいるわけでもない。ただ、そこの言葉に興味があったから習得しようと思った。それだけ。
 この動機には、方言が話されている土地とのつながりがない。方言はその土地で口伝される、いわば文化のようなものであって、その文化を守り伝える人々にリスペクトが感じられないような動機は不純だ。だからだめだ。

 うーん、ありそう。ありそうだけれど、本当にそうだろうか。不純だろうか。

 外国人との交流の場面を考えてみよう。
 日本語を学ぶ外国人が、「日本のアニメやドラマ、J-POPに興味があって学習しています」と言えば、納得できる気がする。日本語を学習した結果、よりそれらを楽しむことができるようになることが十分予想できる。
 ただ、そういった文化から入るのではなく、ただ言語に興味があるから学習する人だっているわけで。ただ日本語に興味があるんです、だから勉強しています、というふうに。
 それはそれでアリだと思うし、それを止める権利はない。日本語を学んだ結果、文化に興味を後々持つようになることも、あるような気がする。まあ、実際あるだろう。学んだ言語で日本人と交流してみたいと思う人だっているだろう。言語から入って、文化享受、国際交流につながるパターン。
 外国人が日本語を学ぶという場面では、言語から文化、交流につながっていくパターンは何もおかしいことではない。

 逆はどうだろう。
 例えば日本人が英語を勉強する目的はなんだろう。就職に有利だから、洋楽やアメリカ、イギリスのドラマが好きだから、英語圏で暮らしたいから、旅行するときに便利だから。オーストラリアに行ってカンガルーと戯れたいから。動機は色々あると思う。
 その中に、英語が好きだから、という理由だってあるはずだ。ただ、英語という言語それ自体が好きだから、学んでいる。そういう人だって、たしかにいる。そしてそれは別段非難されるようなものでもない。
 日本人が外国語を学ぶという場面でも、言語自体に興味を持つことは、何もおかしいことではない。

 では方言の場合はどうだろう。方言それ自体に興味があったから学んでいると言ってみたところで、いったい何が悪いのだろうか。何か問題でもあるのだろうか。
 いや、悪くはない。別段大きな問題があるわけでもない。しかし疑問が残る。
 先の話はあくまで日本人と外国人との間の意思疎通の場面を挙げて、言語自体に興味を持つことは別におかしいことはない、という話だった。
 けれども、方言の話はあくまで日本の中の、日本人の間での意思疎通、言葉の話であって、そっくりそのままその話を適用できるわけではないのではないか。方言を習得しなくても、ふつうに話通じるじゃん。なんで?
 この問いは、厳しい。確かにその通りなんだけれども、ただ僕には納得し難い。
 第一に、方言の習得がそこまで合目的的でなければならない理由がない。方言自体に興味があるから習得しようと頑張っている。そこにさらに目的を何か設定しなければならないのは、言語に興味を持つこと自体を忌避する意識があるような気がする。
 第二に、共通語、早い話が改造された東京弁が絶対的に正しい日本語であるわけではない。通じやすいから便宜上共通語という位置にあるだけであって、その他の方言が異端の日本語であると考える理由はない。さまざまな日本語の姿がある(ありうる)。共通語であれば通じるんだからわざわざ別の方言を習得する必要はないとすると、多様な日本語の在り方を捉えることができない。日本語はそこまで均質的なものではない。均質でない、多様な日本語を身に着けたいのである。
 要するに、方言を習得しなくても、話が通じないわけではない。しかし、だからといって方言に興味を持ってはいけないという話にはならないし、話が通じるからといって、全く同じ日本語を話しているわけではない。日本語には多様性がある。
 その土地に行くわけでもなく、知り合いがいるわけでもないのになぜ方言を習得しようなんて思うの? と疑問に思う気持ちはわかる。その疑問に方言習得の目的の確認という意図があるのもわかる。ただ、目的がないと方言習得を目指してはいけないというわけではないのだ。

 さて、結局、何にぶち当たったのか、整理しよう。
・方言は土地と結びついているものであるという観念
・方言を習得する目的は何かという疑問
・方言を習得しなくても意思疎通は問題ないのではないかという疑問

 後ろ二つには既に答えた。方言自体を目的とする。意思疎通に問題がないからと言って方言習得を無視すると、多様な日本語を身に着けることはできない。
 一つ目、方言と土地の結びついているという観念。要するにそういう考え方。
 実際それは間違ってはいない。確かにその通りだ。方言は土地と結びついている。というか、そもそも、その土地に住む人々が使いやすいように言い方を考えたり、単語を作ったりして出来上がるのが方言だから、当たり前と言えば当たり前だ。ただ、それをいったん、ひとつの言語体系のように捉えて、他地方の人達に習得させることができないかというと、これは非常に怪しい。方法さえきちんと整えれば、習得することは可能なはず。

 今回の暫定的な結論をまとめよう。
・方言は土地から切り離して習得可能である。
・方言を習得する目的は必要なく、方言習得自体を目的としてもよい。
・方言習得をしなくても意思疎通が可能なことは、習得を妨げる理由にはならない。

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