見出し画像

選択の結末

前回のつづきです。前回はこちらから。

一時保護所に来て5ヶ月、季節は秋の中頃。当時私がいた一時保護所での平均滞在日数はみな1ヶ月〜2ヶ月程で、5ヶ月もいると私よりも先にいた子供達は行くべき場所が決まり退所、新しい子が何人も入ってきて、気がつけば保護所内では私が一番長くいる先輩になっていた。

「文化祭があるからこれで工作しなさい」といきなり言われ、文化祭?と疑問を抱きつつもフェルトでのマスコット作りをしていた。家庭科の授業で習ったのを思い出しながら、ひと針ひと針丁寧に、いや、わざと時間をかけながら縫った。退屈な保護所内で初めて行う新鮮な作業を、少しでも長くしていたかったのだ。中に綿を詰めては出し、縫い終えてしまった糸をハサミで切ってはまた縫い直す。保護所内で一番先輩の私は、例の事件のせいでテレビが一切禁止になっていたのでマスコット作りで暇を潰した。

1ヶ月に一度、私が最初に電話した時担当になった児童相談所の職員さんが会いに来る。「調子はどうですか」「変わらずです。養護施設の件はどうなっていますか」「まだ空きが出ませんね」来る度私はここをいつ出られるのかと遠回しに確認したが、一向に前に進んでいないように感じた。3ヶ月目くらいから薄々勘づいてはいたが、ここまで必死に耐えたのだからもう少し頑張ろうとなんとか心を無にして踏ん張っていた。

ある朝、食事後に毎日のランニングが来月から40分になると告げられ、プチンと何かが弾けてしまった。……もういい。こんなところにいるなら家にいたほうが全然マシだ。家にいた方ががまだ自由だった!トイレに行く許可もいらなければ、締め出されても屋上で空を眺めることだってできる。父と母の機嫌だけ取っておけば、あの家はだいぶ自由だったじゃないか!児童養護施設だってここのような場所かもしれないぞ、もう耐えられない!!考えないように抑えていたものがドバッと頭の中で溢れ出し、保護所の職員さんに「担当職員さんに会わせてください。ここを出る話を進めたいんです」とお願いをした。

3日後、担当職員さんが来ていつも通り別室に移動し、「家に帰りたいです。無理言ってごめんなさい。よく考えてみたら、私にも殴られる原因はあったんです…お母さんにもう一度会いたいよ……」と嘘泣きをしながら情に訴えかける戦法で話した。すると職員さんは「そう!養護施設の空きは順番待ちでたくさんだったから、家に帰りたいって言ってくれて良かった!」とまるで肩の荷でも降りたかのように私に言った。「じゃあ一時保護所を出て家に帰る手続きを進めるわね」とトントン拍子で話が進んでいき、もう苛立ちも喜びもしなかった。

出る時に没収された下着と画材、それに作っていたフェルトのマスコットを「文化祭に間に合わないか持って帰りなさい」と言われ持たされた。

そこから車で移動し、確か最初に行った児童相談所まで両親が迎えにきてくれていた気がする。記憶は曖昧だが、父と母の顔が「他人専用の謝罪顔」のお面をかぶっていたことだけはよく覚えている。娘が大変迷惑をかけて申し訳ありません、みたいなそういうお面。母はよくそのお面をかぶるのがうまかった。これは相当怒っている、帰ったらそれはそれは酷い目に合わされるだろうな。恐怖と、牢獄から出られたという安堵と、久しぶりの自由な外の空気に触れられたちょっとの嬉しさが複雑に絡み合い、施設での一連の出来事はトラウマとなってベットリと私の心に染み付ついた。

家に帰ってからの両親は私がいなかった空白の期間を何事もなかったかのように接してくるだけだったが、次女だけは打って変わって私に激怒していた。家に帰ってフェルトのマスコットを「あげる。おねーちゃんこれでも頑張ったんだ」と次女に手渡したら、「お姉ちゃんのせいで友達全員いなくなった!」と涙目で叫ばれた。どうやら私は病気で学校を休んでいるという設定にされていたらしく、妹は両親に「近所で噂が立つと商売の邪魔になるから病気って言って」と真実を話すのを禁じられていたらしい。私のクラスメイトは私が長いこと学校に来ないのを不審がって、当時私と同じ中学の一年生だった次女に休み時間がくる度「どこの病院にいるんだ?」「お前のねーちゃん本当に病気なのか?」と問い詰められたそうだ。毎日上級生がぞろぞろと下級生の教室に来て呼び出されては、友達作りどころの騒ぎではない。次第に次女はクラスで孤立していったそうだ。次女は親の逆らえない絶対服従の言いつけと、私が居なくなったせいで学校に居場所がなくなってしまったという板挟みの状態に1年弱もの間苦しめられたのだ。

フェルトの人形を受け取った次女はギュッと押しつぶすように握りしめ、私はその日を境に次女と会話をしなくなった。

つづきはこちらから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?