見出し画像

思い出のあの子について #1 ~絶対女王の帰還~

2022年5月15日、女王が帰ってきた。

3年前にデビューした華奢な少女は、大雨の中で泥まみれになって一冠目、前方を壁に塞がれながらも大胆に馬群を縫って進出し二冠目、彼女の魅力を最大限に引き出す完璧な展開で三冠目をもぎ取り、世代の絶対女王となった。
その翌年に彼女を襲った故障から復帰し、およそ1年半ぶりに私たちの前に帰ってきたのだ。

彼女が故障したとの報道には心底絶望した。
三冠馬3頭が激突した世紀の一戦で、無敗という肩書きに初めて傷が付けられ、その次も僅差届かず伏兵に敗れた。それ以来の復帰だ。彼女が帰ってくるのは嬉しいことだが、やはり不安も大きかった。

舞台は東京芝1600m、ヴィクトリアマイル。
彼女は1枠1番でレースを迎えることになった。
世代混合のマイル女王決定戦。絶対女王にとっては久々のマイル戦だった。いくら出走を心配されても、彼女なら無事に帰ってきてくれると信じて、私は画面をじっと見つめていた。

彼女は久々に新緑のターフを目にして、何かを思っただろうか。
デビュー戦から一度も交代されていない唯一のパートナーを背にして、何かを思っただろうか。
マイル女王の座を奪還しに来る他の17頭を、彼女はどう見ているのだろうか。
逆に、他の17頭は絶対女王をどのようにして迎え入れるのだろうか。

彼女は、他の17頭のうちの殆どと初対決であった。
彼女が羽を伸ばしている間に様々な階級で世代交代が起こり、ライバルとして三冠に挑戦した仲間たちは後輩世代に苦戦し続けている。
無敗という名誉を同じ瞬間に失い、かつて苦渋を共に味わった同期の英雄は、昨年のラストランで劇的なフィナーレを遂げた。

私は人間であるという権限を利用してこのようなシナリオを読み返し、物語のようにアウトプットすることができるが、彼女は全く違うだろう。
仮に同期の英雄の姿は覚えていたとしても、その後彼がどのような軌跡を辿ったのかまでは知らないはず。彼女たちにとって、その蹄跡は単なる事実なのだ。
しかし、歴史的名勝負の大本命に若い2頭が加わっていたことは、私の記憶に深く刻まれている。一昨年世代最強を守り抜いた彼女であれば、同期の英雄に並ぶくらい輝かしい軌跡を残すことができるのではないだろうか。この復帰戦は、彼女の夢の途中なのだ。

1枠1番、5番人気でレースを迎えた。
世代に敵がいなかった頃と比べると、流石に評価は落ちていた。
それでも、彼女に対する「牝馬三冠馬なんだから一発やってくれるだろう」という、漠然とした期待と上昇志向な偏見が、5番人気という数字に表れているような気がする。

ファンファーレが演奏される前、全馬がゲート位置へと導かれる間、現地のアナウンサーによって彼女の復帰が讃えられていたらしい。

「そして……待ってました、よくぞ復帰してくれました、1番デアリングタクト!」場内から拍手が起こる。彼女のことを待ち侘びていたのは誰だって同じだった。私も、心から彼女を待っていた。

彼女がいないレースの世界、これが本当に面白くなかった。
どんなに人の心を動かす結果になったレースでも、どんなに名勝負と謳われたレースでも、「彼女が出ていれば……」と、いつも考えてしまった。

しかし、今回は違う。
正真正銘、彼女は現実の大レースを走るのだ。私の妄想なんかじゃない。
ずっとあなたを待っていた。私が愛してやまない彼女が、もう一度ターフを疾走する。復帰は普通絶望的だと言われている怪我を克服し、彼女は帰ってきた。
ヴィクトリアマイルを復帰戦にするというニュース記事を帰りの電車の中で読み、あまりの喜びに大勢の前で涙を流しそうになったことは恥ずかしくも思うが、それも良い思い出だ。
あと少しだけ味気ない平日を繰り返すだけの日常を乗り越えると、1年以上もの間は”もしも”でしかなかった妄想が、彼女が無事でさえいれば実現すると分かったのだから。

1枠1番、一番内のゲートから夢を狙う。

前から6番手あたりに位置取り、完全なるインコースで仕掛け時を待ってレースを進めた。レース中に骨折したりしないだろうか、彼女の気分を変えてしまわないだろうかといった不安がほんの少し前まではあったが、そんなことを一切感じさせない堂々たる走りをしていた。
雄大な馬体を真っすぐに運んでいる。彼女が帰ってくるという知らせを文字で見た時よりも鮮明に、彼女は本当に帰ってきてくれたんだと思った。
それは決して、全くもって、私のためなんかでないのは分かっている。顔を合わせたこともないのだから、彼女が私のことを知っているはずがないのも分かっている。
それでも、私と彼女はどこかで繋がっているような気がするのだ。

レースが進んでも、彼女に異常があるようには見えなかった。あまりにも順調に走っていた。彼女を信じると言いながらも、少しの心配を抱えていた私が馬鹿だった。私の不安など、彼女にしてみればどうでも良かったようだ。

逃げてペースを作る年上の伏兵が、後続を引き連れてコーナーまで辿り着く。その馬から1馬身離れた所に同期の2頭が食らいつく。さらにその後ろでは、真っ白な馬体を持つ年下のアイドルホースが脚を溜めている。三冠女王はまだその後ろ、インコースを保ったまま抜け出すタイミングを図っている。いつもの末脚が炸裂すれば、もしかしたら復帰戦を勝てるのではないか……最後の直線でまた夢を見た。

先頭を行く馬はコーナーを上手く曲がって、さらに後続に差をつける。同期の2頭のうち、1頭は進出を開始し、もう1頭は馬群に呑まれ始めた。そして、前を走る2頭の真ん中から白い馬体が飛んできた。大歓声だ。
ここ数戦は勝ち星に恵まれなかった白毛のアイドルが、大勢のファンから声援を贈られて先頭に立とうとしている。確かに強い。先頭に立つまでに時間は掛かったが、残り400mあたりでアイドルホースの勝ちを確信した。

その後ろからは、白毛のアイドルとともに昨年の牝馬三冠路線で雪辱を共にしてきた2頭の同期も、鋭く脚を伸ばしてきた。先程まで先頭に立っていた馬は、抜かされそうになりながらもまだ脚色を残していた。
このゴール前数100mの争いを、彼女は右斜め前に見ていた。

「抜けた!抜けた!白毛のアイドル ソダシだ!」
白に染まる東京競馬場。
歓声が鳴り止まない。
大人気のアイドルを信じて応援し続けた者の夢が叶ったというわけだ。
多くの人々に望まれた勝利なのだろう。

結局、彼女は6着に敗れた。
5着までを表示する場内の掲示板に、彼女の馬番"1"は載らなかった。彼女は初めて掲示板を外した。
しかし、彼女に着順という数字が与えられただけで、私は良かったのだ。彼女が帰ってきてくれたことで、私の夢はひとつ終わりを迎えたのだった。

それから約1か月、彼女は順調に調整を重ね、阪神芝2200mで行われるグランプリレース・宝塚記念に出走した。
ファン投票で上位に選ばれた馬たちが出走権を与えられ、ヴィクトリアマイルと同時期くらいからその投票が始まっていた。最大10頭選ぶことができ、私も宝塚記念に来てほしいと本気で思っている馬たちを10頭選んで投票した。その中には彼女の名前も入っている。
ファン投票の結果、彼女は102317票を獲得して7位。大勢の夢を乗せて挑む大レース。そして私は、この宝塚記念で彼女の完全復活が実現されたと思っている。

彼女の名は、デアリングタクト
2017年4月15日生まれ。父エピファネイア、母デアリングバード。
祖母には、牝馬三冠レースで好成績を挙げ、重賞勝利経験もあるデアリングハートがいる。

馬名の意味は「大胆な+Tactics」より『大胆な戦法』。父名の演劇・音楽的な要素と、母名の「Daring」を合わせた、芸術的な名前だ。
2年前に見たようなレースっぷりを、これからも魅せ続けてくれることを心より願っている。

登場人(馬?)物
デアリングタクト(2020年 牝馬三冠達成)
◎ソダシ(2022年ヴィクトリアマイル覇者)
◎レシステンシア(2022年ヴィクトリアマイル3着)
◎レイパパレ(2022年ヴィクトリアマイル12着)
◎ローザノワール(2022年ヴィクトリアマイル4着)
◎ソングライン(2022年ヴィクトリアマイル5着)
◎ファインルージュ(2022年ヴィクトリアマイル2着)
◎コントレイル(同期のクラシック三冠馬)
◎松山弘平騎手(デアリングタクトと全戦でコンビを組む)

2022年ヴィクトリアマイル(YouTube)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?