思い出のあの子について #2 〜真面目すぎた天才少女〜
その少女ほど応援したくなる馬は、簡単に見つからないだろう。端正な顔立ちに、額から鼻先にかけて真っ直ぐに落ちる白い流星。少女らしいあどけなさと、物静かな優等生気質が同時に含まれるその瞳に、私は恋をした。
彼女の特徴と言うと、やはり「ギャップ」の一言になるだろう。彼女をよく知る関係者曰く、『普段は大人しいのに、レースに行くと頑張りすぎてしまう』らしい。彼女に恋した者たちにとっては、それが愛おしくてたまらないのだ。そんなギャップのある性格が、彼女の競走生活を難解なものにさせている。
私が彼女から初めて衝撃を貰ったのが、2020年8月22日のデビュー戦。小倉芝1200m、短い距離ながらも大楽勝で圧勝した。
それから彼女は短距離重賞を2連勝。初めての1600m戦、GⅠ阪神ジュベナイルフィリーズでも4着に入り、距離が伸びても好走できることを証明した。年明けのGⅡチューリップ賞も1着同着で、彼女にはクラシックロードが見えていたかもしれない。
ここまでの戦績を並べると、単に安定して強いサラブレッドなのだとしか感じられないだろう。先程紹介した彼女の個性を忘れていないだろうか。『レースに行くと頑張りすぎてしまう』のだ。
ゲートが開いて10秒も経たないうちに、何度も首を天に突き上げる。騎手は懸命に手綱を引いて宥めているが、彼女は頑なに応えない。
馬が騎手の命令に従わずに走ることを「かかる」「折り合いを欠く」などと言い、そうなると持久力を大幅に消費してしまう。彼女も、レースに向いた時の前進姿勢が強すぎて、よく折り合いを欠いている。
普通、レース中に激しくかかってしまった馬に対しては『これは負けたな』と思うものだが、彼女はそれで圧勝することがある。そこが異次元なのであり、私が彼女の応援をやめられない理由だ。
チューリップ賞を勝利した後、彼女はGⅠ桜花賞に挑戦した。デビューして1年も経たないものの、同世代の中を勝ち進んできたほんの一握りの少女たちだけが出走可能。3歳牝馬に贈られる、一生に一度の晴れ舞台だ。彼女は3番人気でレースを迎えた。
しかし、私の心配が現実のものになってしまった。それも、私の想像を遥かに超えて。
少しの出遅れ、ゲートを出た直後に首を振り回す、凄いスピードで大外を回り先頭に立つ……阪神芝1600m、坂のある最後の直線でスタミナが切れたのか、走る気を失くしたのか、勢いよく馬群に呑まれていった。
18頭立ての18着に終わった。
続くGⅢキーンランドカップ。
札幌芝1200m、8月に行われる“夏競馬”。
『夏は牝馬』だとよく言われている。この日は彼女以外の牝馬が勝利した。
彼女の背に乗って手綱を取る騎手の姿勢は、周囲と比べると素人にも分かる程の違いがあった。もうここまで来たら、ゲートから出てすぐに「く」の字になって前進を止めようとする騎手と、どうしても先頭に立ちたい馬との闘いだろう。
結局彼女は馬群の隙間を猛スピードで抜けて先頭を奪ったが、最後の直線でまとめて差し切られてしまい、7着に敗れた。もう二度と、あんな彼女は見たくなかった。
それからの彼女は、マイル路線から脱却し、短距離路線制覇を目指すことになった。
騎手の乗り替わりを経て、GⅠスプリンターズステークス。
『メイケイエールなんと今日は折り合っている!』実況の言葉に、どれだけのファンが驚いたことだろう。
翌年のGⅢシルクロードステークス。
前走からパートナーの変更は無し。パシャファイヤーと折り返し手綱という、走りを矯正するための馬具を味方に快勝、チューリップ賞以来の復活を誓った。
スプリント女王に一歩近づいた状態で臨んだ、GⅠ高松宮記念記念。外枠に泣かされ5着に敗れた。
それから2ヶ月、GⅡ京王杯スプリングカップ。
信頼の1番人気、疑念の単勝3.1倍。
前走の鬱憤を晴らすべく、超高速の末脚を炸裂させる。私が見たかった彼女の姿。残り200mで先頭に立ち、そのままゴール板を駆け抜けた。
彼女は確実に心身の成長を積み重ねてきていた。昨年の彼女とは全く違う馬のようだ。
『あとはGⅠのタイトルだけ』……陣営は、彼女が勝つ度にそう語る。
同期の少女たちが牝馬三冠レースに挑む中、彼女は昨年から短距離路線を最前線で疾走している。
多くの人々に名前を覚えてもらい、ファンを魅了し続けている。ここからも、その躍動は終わらない。
昨年も挑戦したGⅠスプリンターズステークス。
そのレースの優先出走権を得ることができる、トライアル競走に彼女は挑戦した。
2022年9月11日。
舞台は中京芝1200m、GⅡセントウルステークス。
1番人気が実力を発揮しやすい、いわゆる“堅い”レースだ。その中で、彼女は単勝1倍台の1番人気に推された。それに次いで2番人気に推されていたのは、同期のマイル女王・ソングライン。この年の安田記念(GⅠ、東京芝1600m)を勝利し、同世代では2頭目の古馬GⅠウィナーとなった。
彼女とソングラインとの間が少し空き、ソングラインと3番人気との間は大きく離れているというオッズ。完全なる二強だった。
パシュファイヤーを装着して覚醒した彼女の躍動を信じ、私も彼女が勝つと確信していた。
少しゲートに入るのを嫌がっていたように見えたが、それまでもが愛らしく思えた。圧勝したら「やはり彼女のポテンシャルは凄まじい」、惨敗しても「あの子の性格だから何か気に障ったんだろうね」と、どちらに転んでも納得してしまうのが彼女だ。私はそう考えていた。しかし、それは幼かった彼女にしか通用しない思考回路だったのだと、ゲートが開く前には思いもしなかった。
私が淡々と平日を受け流し、週末は画面の前で好きな馬を追いかけるという日常を繰り返しているうちに、彼女はお転婆な少女から大人の女性へと成長していたのだ。
ゲートが開く。
私の知っている彼女なら、ゲートが開いて数秒経ったら首を大きく天に突き上げている。しかし、その日の彼女は違った。
筋肉に包まれた長い脚を活かして、大きな歩幅で駆けてゆく。馬群と馬群に挟まれた前目の位置で、彼女はパートナーと折り合っている。他馬と比べると圧倒的に軽く、堂々たるフットワーク。
私は、また彼女の走りに惚れていた。
時間が経過しても折り合い続けた彼女は、絶好のポジション、絶好の手応えで第4コーナーを迎える。
末脚が炸裂することを信じ、画面の向こうで懸命に駆ける彼女を見つめていた。
――もう二度と、あんな彼女は見たくない。
他馬を圧倒するパワーとスピードで、大地を蹴り上げ前進する。最前列を奪い取った。
地に脚が着く度に後続を突き放し、加速に再加速を重ねる。衝撃の末脚、観衆の大歓声。
彼女は大好きな先頭の座を誰にも譲らずに、レースを終えた。
1200mのレースは、いつも瞬く間に終焉を迎える。数字で表すと、1分10秒程度で終わってしまう。
天候、馬場の状態、馬の能力、騎手の手腕、レース展開……様々な要素が絡み合って編み出される数字が“勝ち時計”などと呼ぶ。そのレース、そのコースで最も速い勝ち時計を、“レコード(タイム)”と呼ぶ。
中京芝1200mのレコードは、2016年のGⅠ高松宮記念でビッグアーサーが叩き出した1分6秒7だった。
大レースで高速の勝ち時計を決め、6年以上もレコードを保持してきたビッグアーサーは、歳下で発展途上の少女がそのタイムを破ったことに何を思うだろうか。
全馬がゴール板を通過した後、中京競馬場の掲示板は「1:06.2 レコード」を知らせていた。“レコード”の赤い文字が掲示板に表示される瞬間の、あの熱気が好きだ。
中京芝1200mを史上最も速く駆け抜けた彼女は、その3週間後に行われるGⅠスプリンターズステークスへの出走を正式に表明した。昨年も同じレースに出走し、不完全燃焼で終わった。
トライアル競走を快勝した彼女に残された課題は「GⅠタイトル獲得」のみ。本番・スプリンターズステークスで、彼女がもう一度あの走りを見せてくれること、彼女が競走の世界を席巻するスプリント女王に君臨することを、切に願っている。
彼女の名はメイケイエール。
父ミッキーアイル、母シロインジャー。
シロインジャーの母はユキチャン。
ユキチャンの仔にはブチコがいる。
さらに、ブチコの仔にはメイケイエールのライバル・ソダシがいるため、同期のライバル同士は従姉妹にあたる。
一族の大半は生まれた時から真っ白な馬体を持つ白毛なのに対し、メイケイエールは鹿毛。白毛一族としては珍しい毛色をしている。
メイケイエールとソダシのライバル関係は、レースだけで成り立つものではない。
彼女たちの共通点といえば、それぞれの魅力が濃厚すぎてファンが多く、人気がエスカレートして写真集を出したという、センター級のアイドルホースである点。
私はメイケイエールの写真集は購入し拝見したが、本当に“可愛い”という言葉がぴったりだった。あんなにも可愛い彼女が、レースでは強くなったり強くなりすぎたりするのが未だに信じられない。
これだから彼女はやめられない。
その名の通り、彼女の魅力に気付いたファンたちが、心から応援したくなる馬。陣営の努力に感銘を、彼女自身の努力に感動を差し出された。
パシュファイヤーの裏側で、彼女の目は何を見据えているだろうか。彼女がどこかで生き続ける限り、彼女への声援は鳴り止まない。
2022年セントウルステークス(YouTube)
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