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見ないふりして、見えなくなって、そして僕はオトナになった。

自慢ではないが、僕は達観していると思う。

僕の数少ない友人に、「僕の長所を言ってごらんなさい。」と尋ねれば、彼らは口をそろえて「情緒が安定していること」と仰るであろう。

私事ではあるが、つい先日、父方の祖父が逝去した。今年の3月に母方の祖母が逝去したときにもブログを書いたが、まさか1年に2度も身近な人の死に立ち会おうとは。人生、いつ何があるかわからないものだなあ。

祖母の逝去の際にいろいろ考えたことは、『生き切るのだよ』を読んでいただだければ。とってもいい話ですよ。自画自賛。

で、祖母が逝ったときに僕は泣かなかったんだけど、この度、祖父の死に際しても、僕は涙を流さなかった。祖父の息子たる父も、「やれることはやってやったから」と、涙ひとつ見せなかった。血であろうか。

2人の死は、紛れもなく悲しい出来事だ。でも僕はさして落ち込んでいない。なんでなのか、考えてみた。

もちろん強がりではない。現に、自分の感情を分析してブログにしてやろうなんて、変人じみたことをしているのである。

さて、分析。

どうも、僕の「悲しさ耐性」はオールマイティではない。いや、親しい人の死なんて最上級の悲しみに耐えておいて何を言うか。という声が聞こえてきそうである。まあ聞いてください。

こんな僕でも、悲しみに暮れることがある。それは思い返せば本当にどうでもいいことである。ただ、一つ共通点があって、「唐突で、逃れようのない精神的負荷」がかかった際に、僕は悲しみに暮れてしまう。

逆に、じわりじわりと、ある程度の幅をもって実感される悲しみには、僕はめっぽう強いようなのである。人の死は一見突然の出来事のように思えるが、僕の経験した2人の死は、じわりじわりとやってきた。祖母は老衰で、約2年間は「近く訪れるであろう死」を実感していた。祖父は糖尿病持ちで、逝去するまでに何度も死線をくぐるような病状に陥っていた。

じわじわ悲しいほうが辛いのでは…?と思う方もいるだろう。

僕のこの「悲しさ耐性」は何なのだろう。

それは、わかりやすく言えば「見ないふり作戦」だ。考えないようにするのである。

悲しみは、出口のない洞窟のようなものだ。ひとたび洞穴に踏み入ろうものなら、どう進もうが深みへ下っていく。明かりが差すようなことはもはやない。だから悲しいのである。考えても考えても、解決の糸口など見つかるはずがない。だから悲しいのである。

「いつか必ず僕も死ぬのだ」と言いようのない恐怖にとりつかれ、眠れずに明かした夜が何度あったことだろう。死後の世界はあるのだろうか。永遠に暗闇を彷徨うのだろうか。考えても考えても、答えの出るはずもないそんな問いが頭を駆け巡っては、悲しみの深みにはまっていくのだ。そんな日々が、僕にもあった。

だが、いつの間にかそんな夜は少なくなった。何がきっかけだったのか全く覚えていないが、僕は対抗策を会得したのである。それが、「見ないふり作戦」。洞窟への一歩目を踏み出さない。洞窟を見つけたら、どうにかして別の方向を向くのである。なんでもいい。洞窟の反対側にある川の流れに耳を澄ませる。空を見上げて鳥を探す。なんでもいい。明日の予定。今日食べたカレーの具材。なんでもいいからがむしゃらに。洞窟から抜け出すのである。

これなら、じわじわくる悲しみに強いのも納得だ。洞窟を見つける前に、洞窟に踏み入る前に、予防線を張って対処できるからだ。突然の悲しみはそうは行かない。背中をドンッと押されて、気づいたら洞窟の奥深く、既に光は見えていないのである。

で、最近の僕は「見ないふり作戦」を極めてしまったようである。「見ないふり」のつもりが、「見えない」のである。そもそも、洞窟の存在に気付かない。だから、悲しみの存在を認知できないのだ。

祖父母の死に際しても、「愛してあげられた」だの「彼らは生き切った」だの、穏やかな思想が頭を駆ける。そこに悲しみはない。悲しみに繋がり得る思想が、強制的にシャットアウトされている感覚。洞窟が見えるずーっと前の分かれ道で、「この先危険!通行止めナリ!」と鉄条網が張られているような、そんな感じなのである。

こんな僕を、ある人は「大人だね」と評した。

これが、「オトナになる」ということなのだろうか。

ならば、オトナになることは良いことなのかもしれない。限られた人生、悲しみに暮れる時間は少ないほうが良いのだろう。なるべく多くの時間を、明るい木漏れ日の中歩くべきだ。

しかし同時に、これで良かったのかという懐疑が生まれてしまう。不思議と、暗い洞窟が懐かしくなるというか…。「悲しみてえ!」なんてマゾヒズムではないが、僕の人間的な深みはここで止まってしまわないか。なんて謎の心配が生まれるのである。

僕は、見ないふりして、見えなくなって、そしてオトナになってしまったのかもしれない。それが正解なのかはわからないままだ。

オトナになってしまった…なんて考えながら、同時に、オトナにはなれそうもないな。なんて思うのであった。

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