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世界は混ざっていない。

宇宙には濃淡があって、銀河の多く集まる領域と、本当に何も存在しない領域があるらしい。

て、どっかで聞いたことある気がする。

お、待て待て。
信じるな。疑え。自分で調べてくれ。




さて、


環境が変わると、世界は変わる。
思っていなかった様相に、変わる。

顧みれば、今までずっとそうだった。

僕が顧みれるのは幼稚園くらいまでだけども、幼稚園を卒園し小学生になったとき、確かに世界は広がった。

そして、世界の広がった部分は、それまでの世界とは明らかに異質なものであった。

小学生から中学生になったときも、高校生になったときも、大学生になったときも、会社員になったときも。

世界は広がり、広がった部分はそれまでとは異質であった。


世界が広がるたびに、世界は変わってきたのに

それでも僕は、いま自分の前にある光景が、世界の縮図であると錯覚してきたようである。
そんなことはないと頭では理解したとしても、もっと深層の本能的な部分で、「世界は均質である」と盲信してきた感がある。


僕がこの感覚を得たのは、割と最近のことだ。

インターネット、さらにはスマホなんていう超絶便利なものが生まれて、また世界が広がった。

この世界の拡大は、今までのものとは性質が明らかに違った。

何が違ったか、

それは、コミュニティの制約を排して世界が広がったという点である。


幼稚園→小学校→中学校→高校→大学といった僕の世界の広がりは、属するコミュニティの変化によってもたらされた。

このコミュニティというのは、地理、文化、年代などについて、ある程度共通した環境にある人々の集まりであった。

一方で、スマホの向こうにいる人々というのは、そのような共通点がまるで無い人々に思われた。

今度こそ、これが世界の縮図である。

そう思うには十分なくらいに多様性を持っていたはずである。

しかし、そうではなかった。


インターネット上では、いつでもニュースを見られるようになった。
「最近、車の事故が増えたなあ。」
と、思った。
しかし実際に調べてみると、自動車事故件数は2004年から減少し続けているらしい。(ソースはおたふく)

インターネット上では、盛んに選挙での投票が呼びかけられた。
しかし、蓋を開ければ投票率は50%を下回った。

結局のところ、インターネットの世界でもコミュニティの斑が発生しているのである。

何の制約もないはずのインターネットで、人々は自分に近しい価値観を持った集団に吸い寄せられる。自分の興味のある情報のみを検索し、自分が納得できる情報のみを信じ、それを世界の縮図であると盲信するのである。

と、このように
インターネットでの経験によって、僕は確信したのである。

世界は均質ではない。
世界にはどこまで行っても斑がある。

「世界の縮図」たるコミュニティは、もはやどこにも存在しないだろう。

世界の全体像を理解するには、すべての世界を経験せねばならない。それは命一つ、体一つではもはや不可能である。

その上「世界の縮図」が存在しないとなれば、もはや人間には世界の全てを知ることは不可能である。


以上のような空論を机上でこねくり回したとて、結局のところ僕の見ている風景が僕の世界の全てである。

ただ、僕の世界が、そのまま均質に全世界に広がるわけではない。ということが解っているだけなのである。

それだけだけど、恐らく非常に大切な理解なのである。

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