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歴史・人物伝~関ケ原編⑳論功行賞と処分の実権を握った徳川家康

歴史・人物伝~関ケ原編の第20回、最終話です。

徳川家康率いる東軍が圧勝し、石田三成ら連合軍の西軍が大惨敗した関ケ原の合戦。大坂城にいた西軍総大将の毛利輝元は抵抗することなく退去し、家康はすんなりと大坂城入りしたのです。

巧みな論功行賞ぶり

家康は、豊臣秀頼を立てながらも、諸大名に対する論功行賞と処分の実権を自らが握り、行使していきます。論功行賞では、まず徳川家の領地を大幅に拡大し、金山・銀山など利権の大きい場所を直轄地にしました。

続いて、一門への厚遇です。次男の結城秀康は越前(福井)に、四男の松平忠吉は尾張(愛知)に、五男の武田信吉は水戸に加増配置します。娘婿の池田輝政には播磨(兵庫)、蒲生秀行には会津(福島)を与えます。

東軍の豊臣家恩顧の大名も、福島正則に広島、黒田長政に筑前(福岡)、細川忠興に豊前(福岡・大分)、山内一豊に土佐(高知)など大幅に加増します。ただし、江戸からは遠い地に領地を与えたのです。

家康譜代の家臣団も大名に取り立てられますが、最大でも井伊直政の彦根(滋賀)18万石でした。ただし、幕府の政治を担う権利を与え、徳川家を頂点とする譜代大名の集団指導体制を確立させるのです。

徹底した処分を断行

一方、西軍に対しては厳しい処分を科しました。首謀者の石田三成は、小西行長、安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で処刑され、いずれも所領は没収されました。遠島処分の宇喜多秀家も所領没収となったのです。

毛利輝元は、一族で東軍に付いた吉川広家の嘆願により、辛うじて長門(山口)のみ領土を安堵されます。上杉景勝は会津から米沢へ、佐竹義宣は常陸から出羽(秋田)へ、それぞれ減封されました。

また、長曾我部盛親(土佐)をはじめ、たくさんの大名が所領没収の改易処分となりました。盛親ら浪人となった武将の中には、後に豊臣家が蜂起した大坂冬・夏の陣に加わる者も出てきます。

豊臣秀頼は、当然処分の対象にはならなかったわけですが、豊臣家が諸大名に管理させていた領地を家康が再配分した結果、摂津・河内・和泉(大阪)のみの所領となってしまったのです。


関ケ原の合戦は、関ケ原という特定の場所だけの戦いではなく、東北、北陸、九州などでも戦いが繰り広げられ、全国の大名たちが少なからずかかわっていました。

その結果、勝利者となった徳川家康は、全国の領地を差配する権利を得ることになったのです。合戦から3年後、家康は征夷大将軍に任官して江戸に幕府を開き、260年にわたる徳川幕府が始まります。

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