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歴史・人物伝~若き信長編⑧息子に打ち倒された斎藤道三

美濃の事実上の支配者だった斎藤道三は、織田信長を評価していた半面、嫡男の義龍(高政)への評価は低かったようです。むしろ、義龍の弟たちをかわいがっていたとされます。

弟たちに後継者の座を脅かされると思った義龍は、病気を理由に呼び寄せて暗殺したのです。この事件をきっかけに、道三と義龍が美濃の国を二分する争い(長良川の戦い)が起きてしまいます。

戦いは、現当主である義龍の方に分があり、激戦の末に道三は敗れてしまい、討ち死にするのです。信長は、道三の援軍に出向きましたが、敗死の報を聞いて尾張に引き返しました。

「信長公記」は、道三が主君である土岐頼芸を追放した仕打ちを引き合いに、当時の落首(世相を風刺した狂歌)を用いて「自身の自滅をもたらす」と、敗死が自業自得だったかのように書き記しています。

さらに、義龍が父親の道三を倒したことについても、次のように断罪しています。

「今の義龍は親不孝の重罪で、それを恥辱と思わねばならないのである」※地図と読む現代語訳信長公記

これらは、作者の太田牛一自身が「主君と家臣のあるべき姿」「親と子は長幼の序でなくてはならない」との考え方を表したのだと思います。

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