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歴史・人物伝~関ケ原編⑧合戦に間に合わなかった徳川秀忠

歴史・人物伝~関ケ原編の第8回です。

石田三成ら西軍と対決するため、西へと反転した徳川家康ら東軍。豊臣恩顧の大名を先行させ、家康自身は東海道を進み、後継者の徳川秀忠に中山道を進むよう命じます。

秀忠には、徳川家のブレーンである本多正信、重臣の大久保忠隣、榊原康政をはじめ、そうそうたる徳川家臣団が付けられました。しかし、進軍先で待ち構えていたのは、あの真田昌幸だったのです。

東軍と西軍に分かれた真田家

真田昌幸は、上田(長野県)を拠点とする小さな大名でしたが、策略と戦上手で戦国時代を生き抜いてきました。昌幸には嫡男の信之(当時は信幸)と次男の信繁(のちの幸村)がいました。

真田親子も家康に従軍していましたが、石田三成から密書が届き、東西どちらに付くべきかを相談しました。信之は東軍、信繁は西軍と意見が分かれましたが、これには理由があります。

信之の妻は家康の重臣・本多忠勝の娘で、彼女は「家康の養女」として嫁いできました。一方、信繁の妻は三成と同盟を組んだ大谷吉継の娘で、信繁自身も大坂に出仕しており、三成と懇意だった可能性があります。

昌幸の選択は、信繁と同じく西軍に付くことでした。ただし、信之はそのまま徳川軍に従軍させ、東西どちらが勝っても、真田家の家名を残そうと考えたのです。後に「犬伏の別れ」と言われた決断です。

上田城攻めのロスで関ケ原に間に合わず!

徳川軍の一員となっていた信之は、上田城にこもる昌幸と信繁に対し、降伏を促す使者に立ちました。昌幸は降伏に従うようなそぶりを見せながら返事をうやむやにし、徳川軍を迎え撃つための時間を稼いだのです。

秀忠は「大軍で攻め寄せれば、小大名の真田など問題ではない」と、力攻めを命じます。ところが、百戦錬磨の昌幸の軍略にはまって上田城を攻め落とすことができず、味方の損害も大きくなってしまいました。

そこに、家康から「西上を急げ」との命令が届き、秀忠は上田城攻めを断念して西へ向かうことになります。徳川軍を撃退した昌幸、ひいては真田の名が全国にとどろいたのです。

一方で、時間をロスした形になった秀忠は、関ケ原の合戦に間に合いませんでした。このことが、後に「秀忠は武将としては凡人だった」などと言われる原因になってしまいます。

秀忠の軍勢は温存させた?

上田城攻めについて、歴史小説やドラマでは秀忠の判断ミスとして描かれがちですが、私は違った見方をしています。

家康が、徳川軍を自分と秀忠の二つに分けた最大の理由は、織田信長の二の舞を避けたかったのだと思います。本能寺の変で信長が討たれ、その直後に嫡男の信忠も攻め滅ぼされてしまったからです。

関ケ原の合戦は、結果として東軍の圧勝に終わりましたが、戦前には誰も予想ができませんでした。家康が、劣勢や長期戦も視野に入れた戦略を立てていたとしても不思議ではありません。

関ケ原の合戦で仮に東軍が敗れても、秀忠の軍勢が温存されているため、立て直しを図ることが可能でした。万が一、家康が討ち死にしても、嫡男の秀忠が徳川家臣団を率いればよいだけのことです。

それでも家康は、「関ケ原の合戦で雌雄を決する」との意思を強く持っていたでしょう。合戦のその時が徐々に近づいてきます。

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