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歴史・人物伝~関ケ原編③家康を弾劾した3人の奉行と石田三成

歴史・人物伝~関ケ原編の第3回です。

豊臣秀吉の死後、有力大名の「五大老」を支え、実務を担う「五奉行」が置かれました。その代表的な人物が石田三成です。三成失脚後は、増田長盛、長束正家、前田玄以が奉行の職を担っていました。

徳川家康が、上杉討伐のために大軍を率いて出陣後、3人の奉行は留守を狙って家康の勢力を削ぐための策略を講じます。石田三成を密かに復権させた上で、家康に次ぐ実力者・毛利輝元を担ぎ出すのです。

「内府ちかひの条々」とは

増田ら奉行は、家康の度重なる専横に我慢がならなかったのでしょう。連名で「内府ちかい(違い)の条々」という弾劾状を書き、江戸に戻っていた家康らに送り付けたのです。むろん、三成も一枚かんでいたと思います。

ここには、上杉討伐への非難をはじめ、大坂城西の丸を占拠したこと、他の大名と勝手に縁組みしたことなど、13条にわたる弾劾文が書かれています。そのうえで「秀頼への絶対的な忠誠」を求めたのです。

家康に対し、奉行が宣戦布告をしたかのような文面に見えますが、増田らは家康と本気で戦うつもりはなかったと思います。「家康の台頭が豊臣家を脅かすのでは」との危機感が背景にあったのでしょう。

一方で、家康が反旗を翻すことも予想し、毛利輝元に大坂城入りを促します。家康と奉行たちでは実力差が歴然としており、秀頼を守るためには毛利家の力を頼る以外にはなかったからです。

ところが、輝元の大坂城入りを絶好にチャンスととらえたのが三成でした。輝元を秀頼の名代かつ総大将に据え、反徳川勢力を結集して家康を追討するという「武力による決着」を目指していくのです。

石田三成の人物像について

石田三成とは、どんな人物だったのでしょうか。少年時代から秀吉の家臣となり、側近中の側近として絶大な信頼を得ます。とくに、戦闘時の後方支援や政務で力を発揮し、今で言う「超エリート官僚」でした。

しかし、秀吉の家臣たちの間では人望が薄かったとされます。とくに、加藤清正や福島正則ら戦いの第一線で活躍した武将からは、秀吉の威光を振りかざした佞臣(ねいしん)だと毛嫌いされていたようです。

そうした確執が、秀吉の死後に暴発します。清正らが三成を襲撃するという事件が起こるのです。三成は命の危機こそ脱したものの、事件の原因を作ったとして奉行職を解かれ、蟄居謹慎の処分となります。

しかし、このまま隠居するつもりは全くなく、家康が上杉討伐で東へ向かった隙をついて復権を果たすのです。三成は「豊臣家を守るためには家康を倒すしかない」と考えていました。


次回は、3人の奉行らに担がれた毛利輝元について書きたいと思います。

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