見出し画像

歴史・人物伝~関ケ原編②上杉討伐に出陣した徳川家康の真意

歴史・人物伝~関ケ原編の第2回です。

関ケ原の合戦で一番の主役といえば徳川家康でしょう。合戦時の家康の年齢は58歳。経歴を振り返ってみるとともに、合戦に至るきっかけとなった上杉討伐について考えてみます。

徳川家康が歩んできた道のり

家康は、三河(愛知県)の大名家に生まれましたが、幼い時に織田家、さらに今川家に人質に出され、今川義元のもとで元服(成人)を迎えました。1560年の桶狭間の合戦で義元が討ち死にしたことで、今川家の傘下を脱し、独立した大名となれました。

織田信長と同盟を結び、信長の天下統一の戦いに従軍する一方で、東の武田信玄や勝頼と長年敵対関係にありました。1582年は家康にとって激動の年となります。宿敵の武田家が滅び、信長も本能寺の変で倒れ、信長の後継者として豊臣秀吉が一気に台頭してきたのです。

最初は秀吉と敵対していましたが、秀吉が関白に就任したこともあり、臣従を余儀なくされます。小田原の合戦での北条氏の滅亡後、家康は関東に領地を移されました。江戸(東京)を中心とした領土経営をしながら、豊臣政権の「五大老」筆頭として実力を蓄えていったのです。

なぜ、上杉討伐軍を起こしたのか?

豊臣秀吉が死に、勢力拡大の意図を露わにした徳川家康は、当時ナンバー2だった前田家(前田利長)を屈服させ、さらに会津藩の大大名・上杉景勝に「謀反の動きあり」として討伐軍を起こすのです。

当時の家康は大坂城西の丸におり、幼い豊臣秀頼に代わって政治を担っていました。家康自らが上杉討伐に出陣すれば、豊臣政権の中核が抜けてしまいます。それでも、家康は出陣に踏み切ったのです。

家康が、あえて大坂を留守にしたのは「石田三成や西国大名が決起する機会を与えるため」と言われています。確かに、増田長盛ら三奉行が毛利輝元を動かす結果となりましたが、家康の真意はどうだったのでしょう?

私が思うには、家康は一気に天下取りへの勝負をかけるのではなく、「まず東国を自分の勢力で固めたい」と考え、最も脅威となる上杉景勝を屈服させるため、討伐軍を起こしたのではないでしょうか。

もしかすると、輝元の大坂城入りは家康の想定外だったかもしれません。
毛利を動かした三奉行(増田、長束正家、前田玄以)と石田三成について、次回書きます。

noteでは連載コラム、エッセイをほぼ毎日書いています。フリーランスのライターとして活動中ですが、お仕事が・・・ご支援よろしくお願いいたします!