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SWEETS(短編小説)


 スイーツ(笑)っていう、流行を追いかける女の子を何も考えていないと決めつけて冷笑するためのネットスラングがあって、あたしは中学生から高校二年生ぐらいまでの期間、その冷笑こそが面白くて鋭い視点だと思って連呼していたので恥ずかしい……。
 あたしは高校卒業頃にはそうした考えを改めることができたけれど、当時のあたしに影響を受けた八歳下の妹の伊砂はそうした考えを引きずるどころか悪化させた高校生になってしまったみたいで、久しぶりに実家に帰省したとき、
「学生のくせにYouTuberとかしてんの全員馬鹿だよ。んなことやってる暇あったら勉強したほうがずっと豊かだって考える頭もないんだろうけど」
 と言っていてびっくりした。
 あたしでもそこまでのレベルではなかったよ?
 影響を与えた側の責任として、そんなふうによく知りもしない相手を雑な判断で見下すのはよくないよ、という旨を伝える。
「素甘お姉ちゃん、変わっちゃったね。服も髪型も流行なんか意識してさ。昔はもっと頭よさそうだったのに」
 と本気で悲しそうに馬鹿にされる。
 家族でテレビを見ているときも、流行りの女性タレントや男性ダンスグループや邦画をひたすら小馬鹿にしたことを言っていて正直ちょっと居たたまれない……。共感性羞恥の一種かなあ? なんかもう、過去の自分を客観的に見せられているみたいで……。
「伊砂。ちょっとうるさいよ」耐えきれずあたしは言う。
「いいじゃん別に。テレビ見て感想くらい誰でも言うでしょ? イライラすんだもん言わせてよ。あ、出た出たトランスジェンダー。こんなん思い込みでしょ。同性愛者もそうだけど、こういうポリコレみたいなの題材にすんの、結局は流行りに乗っかってるだけでしょ? 結論も感想も紋切り型の肯定で、はあ炎上しないように大変ですねって感じ。こんなん真面目に観るほうが薄っぺらいよね」
 あたしはバイで恋人がトランスジェンダーって話、伊砂にはしないほうがいいだろうか?
 頷くのも嫌だから流して、泊まるつもりだったけれど急用があったことにして帰る。お母さんから色々と食べものを貰うときに、
「ねえ素甘。伊砂ちょっと心配だよね」
 と耳打ちされ、やっぱりお母さんも心配なのか……と思う。お母さんにはあたしの交際相手の話はしてあるから、気分を察することができるんだろう。
 お父さんは伊砂については心配をしていないみたいで、いちいちうるさいとは言っているようだが、ホモフォビア・トランスフォビア的なところがあるからたまにそういう話題で盛り上がっているらしい。
 うわあもう帰りたくない。お父さんには秘密にしておいてよかった。これからはお母さんとふたりきりで会いたい……。
 でも全部そもそもあたしがそういう冷笑を幼い伊砂に刷り込んだのが悪いのだから、逃げるわけにもいかないのかな?
 過去は消えない。

 消えないから逃げないとしてどうしよう?
 と考えてもわからない。わからなければ抱え込みすぎず誰かに相談しなさい、と新卒で入った職場で教わっているので、あたしは同棲中の彼氏に訊く。
 兎リアリィ。身体は女性、性自認が男性。プラトニック・キュート志向。プラトニック・キュートはリアリィが提唱する、ガーリーでもボーイッシュでもない、性別らしさを排したキュートさを追求するファッションだ。
 リアリィは個人で『ユニ・プラヴ』という屋号でプラトニック・キュートをテーマとした服を作っていて、色んなところで売ったり受注生産をしたりと楽しそうだ。あたしはリアリィのセンスを採り入れる気はないけれど、モリモリ作ってタフに動いて広めていくリアリィはすごいなと思う。
 それはさておき。
「別に。はしかみたいなものじゃないの。って、古い言い回しだけども」と、リアリィは破けたクッションを直しながら言った。「素甘も昔……おれと出会ったばかりの、高校一年生のときは冷笑的だったでしょ」
「それは……そうだけど」恥じ入りながらあたしは言う。「でも。伊砂は昔のあたしより全方位攻撃っていうか。家族として純粋に嫌だし、お父さんも同調してるし……これじゃリアリィを実家に連れていけない」
「それはしなくていいんじゃないの? ただ好きで一緒にいるだけなのに、個人的な関係なのに、親に挨拶しなきゃいけない意味がわかんないし。妊娠とかするわけないんだから全然スルーでいいでしょ?」
「……だとしても、伊砂がそうだと実家に近寄れない」
「近寄らなければいい。おかあさまとだけ仲よくしていればいい。話聞く限り、おれは素甘がもっと自由に考えたらいいんじゃないかって思うけど」
「あたしが考えを改めるべきなの?」
「べきじゃない。べき論はいつだって誤解だよ。この世にはやったほうがいいことと、やらないほうがいいことしかない。単に、手っ取り早い方策のひとつに数えていいんじゃないかなって提案」
 リアリィはそう言い終えると、まあ参考程度にね、と言って作業に戻った。リアリィは昔から、あんまり長く話題に付き合ってくれない。リアリィから振った話題も基本的にリアリィのタイミングでさらっと打ち切る。
 だらだらしたことが嫌いなんだと思う。そういう気質に助かることもあるけれど、今回はちょっとモヤっとしてしまう。
 あたしはこのモヤつきを見つめながら出前をとる。リアリィはなんにも作れない代わりになんでも食べるからわざわざ注文とかは訊かない。
 何がモヤモヤするんだろう? こういうときは原点に立ち返ってみるのが大事。あたしは気づく。そうだ、あたしは逃げてはいけないと思っていたんだった。だから逃げてもいいと言われてもしっくりこない。
 どうして逃げてはいけないのかって、それは伊砂にその素養を育ませたのは過去のあたしだから。責任を感じざるを得ないから。
 そう、あたしにとっては伊砂をあのように導いてしまったことは罪で、生きているうちに償いたい。
 だから矯正の仕方を考えたい。そのためにリアリィに訊いたはずなのに、いやはや、宛にならない彼氏だ――リアリィのおかげで、あたしは冷笑を辞めるようになったのにね。
 ……あれ? どんな流れであたしの冷笑は終わったんだったっけ?
 思い出してみれば参考になるだろうか?

 高校一年生のときの話。
 あたしは毒舌家気取りの冷笑系女子だったけれど、もちろん面と向かって言う勇気はなかった。あたしと同じノリの友達と、教室の隅っこでひそひそと、教室の真ん中で楽しげにしている女子グループを対象に言うだけだった。
 でも同じ空間でそんなことをしていたからやっぱりたまに耳に入ってしまっていたようで、ある日ひとりが教室の真ん中から隅っこにやってきて、あたしの胸ぐらを掴んだ。
 昼休みで、みんなの視線が集まる。
「てめえ言いたいことあんなら堂々と言えよ」
 と睨まれた。何言ったってキレられるだろうから、いっそ、と
「死ねよビチグソスイーツ女」
 って言ったら暴力の喧嘩になった。
 相手は女子バスケ部で筋肉があってあたしは文化部だからやべえ負ける、っていうか教室のやつらさっさと先生呼べよ、武藤はあたしの友達じゃなかったのかよなんで遠くに行ってんだよ、とか余計なことを考えていたせいで鼻に強烈なのを喰らって、視界がチカチカだし熱いし鼻血出てる? まあまあ自分の鼻好きだったのに折れたら最悪……とか思っていたらいつの間にかあたしは教室の床に倒れていて、マウントポジションとか取られたら困るなって思っていたらその前に誰かが間に割って入る。
 制服的に女子。誰?
 そこから先は覚えていなくて、気づいたら保健室のベッド。ガーゼとかつけられている。何故かジャージに着替えさせられていて、制服に血とかついたのかな、なんて思う。
「あ、起きた」
 と声がして、見ると女子がカーテンの隙間から覗き込んでいる。髪が長くて背は高い。
「誰」
「兎リアリィ」
「何?」
「ウチ、兎リアリィって名前なの。お祖母ちゃんが変で、リアリィって名前にしなきゃ孫のウチを絞め殺すって言ったからしぶしぶ、らしい」
 急に濃い目のエピソードを聞かされて、説明だったはずなのに何もわからない。
「そっちは?」
「……日岸素甘。お母さんがつけてくれた」
「そっか。いいなあ、つけてくれた。つけてくれたって言えるの羨ましい。さておき、まだあんまり動かないでね。先生そろそろ来ると思うから」
 で、担任と養護教諭が入ってくる。兎リアリィは帰る。彼女こそが先ほど割って入ってくれた女子の正体なのだと教えられる。へえ。
 担任から事情を訊かれたから、あたしが正直に話すと、
「日岸それはお前が悪いだろ」
 と言われてびっくり。あたしボロボロなんですけど? とはいえ担任いわく、喧嘩相手のほうも多少は腕や頭皮に傷がついていたらしい。筋肉のないあたしは爪で遮二無二引っ掻いていたから、一矢でも報いれた感じで少し嬉しい。
 その日は病院に行く。そして翌日の朝、担任に呼び出されて、ごめんなさいをさせられる。どうしても嘗めた態度になってしまって怒られるが、相手の謝罪はぶっきらぼうでも許されて、なんだよなんだよ、と思う。
 教室に戻ると、友達のはずだった子から距離を置かれていることに気づく。兎リアリィの姿はないから別のクラスだったんだろう。
 こりゃ完全にぼっちだ、さらに退屈になりそうだなあ……と思いながら乗り切った帰り、あたしは校門で兎リアリィに待ち伏せをされていて、なし崩し的に一緒に帰ることになる。
「あなた、兎リアリィだっけ。クラス違うよね? なんで仲裁しようと思ったん?」
「トイレの帰り、そっちの教室を横切るんだよ。で、盛り上がってるなと思って覗いたら女子が女子の顔面殴ってて、殴られたほうがぶっ倒れて、おいおいおい誰も止めないのかよ、先生もいないのかよ、って思って。だから止めに入った」
「へえ。正義の味方みたい」
「それ皮肉でしょ。わかるよ?」
「ね、怪我とかした?」
「別に。殴られたけど上履きを手に装備してあったからガードした」
「……なんで上履きを?」
「や、ウチもステゴロの自信ないから」
 ステゴロという響きが耳慣れなくて、面白いな、と思う。メジャーじゃない言葉をいっぱい知っている人なんじゃないだろうか?
 そういう期待を込めてリアリィとよく話すようになる。実際に面白いけれど、それ以上にリアリィはあたしとは別ベクトルで歯に衣着せぬ物言いをかますのでスカッとするし、グサッとくる。
「素甘ちゃんって結構ブーメラン刺さってない? 有名人が使ってるから自分も使う、みたいなのよく嗤ってるけど、素甘ちゃんも見下してるタイプの人が追ってるものは試そうともせず価値がないと思ってる節あるじゃん。結果が逆なだけでもの自体じゃなくて使用者のイメージで判断してるんだから空っぽ度合いあんま変わらないと思うよ?」
「流行ってることやってるやつが全員馬鹿なら、誰もやってないことやってるやつは全員賢いってこと? たとえば授業中に無実の担任を警察に通報するのだって誰もやってないけどそれが賢いの? そんなわけがなくない?」
「ていうか素甘ちゃんってウチのこと自分の価値を高めるために使ってるよね? ウチはたしかに素甘ちゃんしか友達いないくらいには変な子だけど、素甘ちゃんは変な子なウチと一緒にいることで、そんな自分の珍しさに酔ってるんじゃないの? 優しさに酔ってるよりずっと不快じゃないけどさ。自覚してないわけじゃないよね?」
 割合、急にそういうことをズバズバ言ってくるリアリィ。あたしはそういうのに耐えきれなくてたまに泣いちゃうが、それでもリアリィ以外に友達もいないしリアリィから離れたら完全につまらないし寂しいから、落ち着くために少し距離を置いてまた声をかける。
 距離を置く間に言われたことを考えていくことで冷笑から脱することができた……というわけでは、しかしなくて、あたしの考えが変わったのは冬にリアリィが学校を辞めてからだ。
 兎家はリアリィと両親と祖母で住んでいるのだけれど、リアリィの祖母が放火して両親も祖母自身もまとめて焼き殺してしまって家もなくなったから、リアリィは高校に通えなくなってしまった。
 リアリィが他県の親戚家に引っ越して、独りで暇になったから、あたしはリアリィのくれた色んな言葉を反芻して過ごした。独りだから誰も守ってくれず、温存されてきた冷笑気質のせいでまた痛い目に遭うこともあった。それらを踏まえて高校二年生くらいから、だんだん、もしかしてリアリィの指摘は本当に正しくて、あたしはあたしの考えを改めるべきなんじゃないか、と気づき始めた。
 同時に、自分がリアリィに恋をしていたらしいことにも、だからこそ耐えられなくても離れず言葉を覚えられていたのだということにも、ようやく。

 考えをゆっくり変えながら過ごして、大学に進学したら服飾学科にリアリィがいて、そこから色々とあって交際に至るのだけれど、その辺りは伊砂の件には関係がないから割愛。
 さてあたしはどうして心変わりをしたのだろう?
「……恋かなあ」
 結論が声に出てしまった。出前が届いてリアリィと食べているときだった。
「うん? 素甘、おれ以外に好きなやつできたの? まさか」
「なわけないでしょ。リアリィより好きになれる人いないよ」たぶん。「そうじゃなくて、伊砂の話。リアリィが昔あたしにズバズバ言ってくれたみたいに、伊砂にもそういう好きな人がいたら、見つめ直すきっかけになるかも」
「だとして、どうするの? お見合いでもセッティングする?」
「……どうしようもないか」
 でも、あたしが高校生のときだってきっと、家族なんかに言われた程度じゃ、無視するだけだっただろう。恋愛的に好きな相手が一番、人生に啓蒙を連れてきてくれる……気がする。
 で、秋頃に伊砂に彼氏ができる。
 それによって悪化する。
 お母さんから電話が来るから出てみると泣いていて、
「学校から、電話が、かかってきて。伊砂が、クラスの、同性愛者の子、と喧嘩して、怪我はないけど、すごく、酷いこと、言っちゃったみたいで。伊砂に、その話をしたら喧嘩になって。それで、うるせえんだよヴァジャイナが、って伊砂が言って。びっくりして、すごくショックで」
 と言われて戦慄する。性器呼びは流石に一線を越えている……ちょっと吐きそう。親を平気でヴァジャイナと言い捨てられるなんて、そんなの普通にグレたほうがまだマシじゃないの?
「彼氏ができてから、伊砂、もっと口が悪くなってて。だから学校でも、そうなっちゃったと思うんだけど。どうすればいいんだろう」
「……ちょっと流石に、説教っていうか、しなきゃいけないと思う」でもあたしの言うこともお母さんの言うことも聞かないかな? 性器呼びできるレベルで狂ってんだもんね。「えっとさ、お父さんはなんて言ってるの?」
「お父さんも口が汚いって怒ってた」
「口が汚いってレベルの問題じゃないでしょ。娘にそんな悪影響な男ができて、それだけなの?」
「いや、伊砂に彼氏できたのは言ってない。俺の娘を取るなんて! って怒るに決まってるから」
 気持ち悪い。
 ちょっと我慢できなくなって電話を切らせてもらう。神経のなかを、むかむかがぐるぐると這い廻りながら、末端まで浸透していく。あたしはお風呂を洗って淹れて全身を洗浄してお湯に浸かる。少しだけ落ち着く。
 どうしよう。
 お父さんは頼れない。お母さんもナメられてる。
 あたしが行かなきゃ。あたしがやらなきゃ。
 だって姉だし、あの子の原点だ。だから責任があるし、どこかわかる部分もあるかもしれない。
 お風呂を出て牛乳を飲んでいると、通りかかったリアリィが、
「素甘、怖い顔してるけど何?」
 と訊いてくる。
「……伊砂が彼氏に影響されて、さらに酷くなった」あたしはお母さんから聞かされた話をリアリィに流す。「だから、説教しに行かなきゃいけないって思った」
「ふぅん。いつ?」
「わかんない。でも、お母さん可哀想だし次の土曜には行きたい」
「じゃ、空いてるしおれも行くよ」
 とリアリィが言うのであたしはびっくりする。それはつまりあたしの実家に行って両親に会うということでもあるのだと、理解しているはずなのに?
「そうだね。流れがそこにあるならそれはそういうものなのだと思う。おれはただ素甘を支えるために行きたいだけだけれど、目的だけが結果になるというわけじゃないのは、いつだってそうだ」
 リアリィはいつもの調子でそれっぽいことを言う。最近出る予定だった少し大きなイベントが中止になったばかりだから、たぶん退屈しているんだろうなと思う。
 まあ、勢いで押しきられないように、あるいは暴力に発展しないようにリアリィが止めてくれるならありがたい。あたしも妹の綺麗な顔を引っ掻きたいわけじゃない。
 そういう立ち回りをお願いして、お母さんに帰省の連絡を取って土曜、ふたりで実家に向かう。
 途中でリアリィが言う。「そういえば、どう説教するかとか、そもそもなんの話をするかとか決めてある?」
「まあ、ざっくりとは。お母さんに……っていうか人間に対して侮辱的なこと言った件を叱るつもり」
「クラスメイトと揉めた件は?」
「それね、考えたんだけど。学校でのことだし、あたしは流石に関係ない……これは無関心ってことじゃなくてね? もちろん問題だと思うけど、客観的にあたしが首を突っ込んでいい理由があんまりないから」
「それでも言いたいことあるなら言ってもいいのでは?」
「関係ないでしょ、の一点張りで聞く耳持たれなかったらおしまい。だから、関係あると言える、お母さんの件だけ叱る。学校での態度や人間関係は伊砂自身やクラスや先生が考えること」
 と説明すると、そっか、とリアリィは流すように言った。リアリィとしてはその点も放置してほしくないのかもしれないけれど、あたしだって昔は冷笑的だったから、不用意になんでも触られるとおじゃんにしたくなる情動は察せるのだ。
 実家に着く。お母さんが出迎えてくれる。リアリィが存外恭しく挨拶をして、お近づきの印に、と『ユニ・プラヴ』で出しているマフラーをプレゼントした。お母さんは戸惑いつつ柔和に対応するけれど、リアリィが何かをする前から少し疲労の色が見えた。
 お父さんは土曜出勤で、伊砂は家で遊んでいる。
 彼氏と一緒に。
 伊砂の靴の横に、見慣れない汚れたスニーカーがあって、あたしはそれで勘づく。
「お母さん。伊砂は?」
「部屋で彼氏くんとゲームしてるよ」
「わかった」
 あたしは伊砂の部屋に向かう。
 ノック。
「伊砂。あたしだよ」
 何も返ってこない。はて、と思っているとリアリィがドアノブを回して引く。開く。伊砂は男子の膝の上で眠っている。男子はイヤホンをしてスマホで動画を観ていたけれど、気配で気づいたのかこちらを見ると驚いたようにイヤホンを外した。
「お邪魔しています。えっと……伊砂さんのお姉さんですか?」
「あ、はい」
「始めまして、日岸伊砂さんの同級生で、お付き合いをさせていただいております、樫屋同右という者です」
 恭しく頭を下げられ、少し戸惑う。思っていたより穏やかで礼儀正しい雰囲気があったから。大人しい寄りの普通っぽい子だ。
「日岸素甘です」思わずあたしも丁寧に頭を下げてしまう。「ごめんなさい、伊砂を起こしてもらえませんか」
「はい、かまいませんよ」
 男子――樫屋は伊砂の肩を揺する。伊砂はうざったそうに手をのけながら、ゆっくりと起き上がり、あたしを見つける。
「素甘お姉ちゃん。何しに来たの」
「君に話があるんだって。えっと、僕はここにいないほうがいいですか?」
「ううん。樫屋くんにも聞いてほしい話なんだけど。というか、説教なんだけど」あたしは言い切って、始める。「伊砂。お母さんのことヴァジャイナって言ったって聞いたよ」
「え、うん。言ったね」
「言ったねじゃなくて。人間のことを性器で呼んではいけませんって、高校生になってもわからない?」
「いけないことをしちゃいけないの?」伊砂は言った。「他の高校生と同じような品性で生きていかなきゃいけない? それも、大人の思う高校生像で?」
「そうじゃなくて。お母さんがしっかり傷ついていたからするなって話」
「でも敢えて傷つけることなんて、あるでしょ? たとえば、なんかこう、あるじゃん。腹立つおっさんにズバッと容赦のないことを言えてスカっとしました、みたいな。あれはつまりおっさんを傷つけてると思うけど、いいの?」
「そういう俗世間の話はしてない。わかんないかな。伊砂が、お母さんを傷つけるために選んだ言葉は、趣向は、すごく下品で悪趣味だから、そういうことを言うのをやめたほうがいい」
「上品でいい趣味の振る舞いしか許されないなんて、そんな家庭は息苦しいよ? 鼻とかほじっても許されるからこその家じゃん?」
「そういう話だってしてない!」あたしは思わず大きな声が出てしまう。「いい加減にしろ! 理想の家とかしてないんだよ! お母さん泣かせるような汚い口を直せって言ってんの!」
「素甘お姉ちゃん、いまそんな風に怒鳴ってるけどさ。ここでわたしが泣いたら、妹を泣かせるような強い口調は直そうって思ってくれるの?」
 手が出そうになって、歯を食い縛って踏みとどまる。余計なことはしない。何が余計だ?
 そうだ。問題の本質は誰だ?
「樫屋くん。お母さんは、伊砂に彼氏ができてから酷くなったって言ってたんだけど。普段どんなことをしてるの?」
「そうですね、たとえば動画サイトを一緒に楽しんだりですとか、それから色んな話題について話し合ったりですとか。サブスクで話題の映画を観て、感想を言い合うこともあります。高校生の身分ですから、もちろん弁えた清いお付き合いをさせていただいております」
 樫屋はにこやかにそう言った。
「そっか。樫屋くんは伊砂の……あたしがさっき言った件について、どう思う?」
「そうですね。失礼を承知で申し上げるのであれば、余計なお世話なのではないかと考えております」笑顔を崩さずに続ける。「長い人生のなかで、口の悪い時期、母親に反抗してしまう時期といったものは、言ってしまえばありふれているものではないでしょうか? 僕も伊砂も多感な、不安定な時期です。誰かを傷つけることも、もちろんございます。しかし失言や失敗を重ねて、人間は学んでいくのです。周囲の大人は、あまり構いすぎてしまったり押さえつけてしまったりせず、成長を見守るようなゆったりとした気持ちでいるべきなのではないでしょうか?」
 あたしは理解する。伊砂は明らかに、この彼氏の影響を受けている。樫屋のように、もっともらしいだけのことをすらすらと言えるような人間になったのだ、伊砂は。
「失言や失敗は勝手には糧にならないよ」あたしは負けない。「大人に叱られたり、自己弁護をせずしっかり反省をしないと、成長に繋がるわけがない」
「その通りですね。ところで、悪いことをすると必ず自分に返ってくるそうです。であれば、伊砂はいつか母親への物言いを後悔するような出来事に遭うことでしょう。そう考えると、いま急いで叱りつける必要は、そんなにないのではないでしょうか?」
「いまだよ。いま、ここで返ってくるんだよ。先延ばしになんてできないんだよ」
「なるほど」樫屋はそこで頷き、伊砂の肩を叩く。「伊砂。お姉さまのお話を聞きましょう」
 お姉さまって呼ぶな。
 さておき伊砂が割合従順に目を合わせて聞く姿勢を取ってきたので、あたしは言う。
「伊砂。……さっきは怒鳴ってごめん。でもね、あたしは責任を感じている」
「責任?」と伊砂。
「昔のあたしが愚かだった。人気なものは、根拠もなく薄っぺらいと思ってた。全部馬鹿にするのが、個性的で面白いって思ってた。誰も言わないことは誰も考えていないことで、だから考えられる自分の頭がいいと思ってた。そしてその勘違いを伊砂に植えつけて、すっかりここまで育ってしまったんだね」
「お姉ちゃんは、いまのほうが愚かだよ」
「いや。いまのほうが、あたしはマシだよ」言い切る。言い切らないと始まらない。「少なくとも、恥ずかしくない。『スイーツ(笑)』なんて言って、楽しそうに生きてるだけの罪のない女の子を何も知らないのに嘲ってた頃より、恥ずかしくない」
 あたしがそう言うと、伊砂はつまらなさそうな表情で見てくる。往年の名作を現代向けに色々と控えめにしたものが目に入ったときのような、がっかり感と、しょうがないのかなって感じ。
 それでいい。面白がるのが間違っているのだ。
「そして伊砂は、あたしより酷くなってる。あたしだって、偏見で人を語ることも、誰かに当たることもあった。でも、性器で呼ぶようなことはしたことないし、トランスジェンダーとか同性愛者とか、マイノリティを貶すようなことはしなかった! 伊砂みたいに、そんな広範囲に傷つけようとしなかった! あたしの影響でそんな風になってしまったから、責任を取って叱りに来た!」
「お姉ちゃんさあ、やめたほうがいいよ?」と伊砂は笑う。「痛い目みるとかじゃないけど……痛々しいよ。マイノリティの味方ぶるのも、そのファッションも、流行に流されて長いものに巻かれてるだけ。薄っぺらいし、馬鹿馬鹿しい。別のものを肯定する時代になったら阿るんでしょ?」
「認識が間違ってる。あたしはマイノリティを尊重することで優しい世界に近づくと心から思うし、ファッションだって追う価値があると知ってる。やったこともないのに、よく知りもしないのに薄っぺらい馬鹿馬鹿しいって言うのが痛々しいよ」
「優しい世界? 優しくできない人を圧殺する世界の間違いでしょ。認識が甘いんだよ。マイノリティを認めるべきとされる世界じゃ、マイノリティを煙たがる価値観はマイナー思想じゃん。うんざりだよ本当に」伊砂は頭を抱えて大きく溜め息をついた。「本当に、本当に、本当にさあ。昔のマイナー思想はいいよね、オタク趣味とかブス専とか、それこそ同性愛とか、色んな物語や歌詞で代弁されて肯定されてきたじゃん。いまのマイナー思想はどうよ、誰も怒られたくないから公に肯定してくれないし、珍しく肯定されたら取り下げさせられるじゃん」
「……お父さんには共感してもらってるでしょ。それに樫屋くんにも」
「お姉ちゃんは満足なの? 二世代くらい前の父親と彼氏にだけわかってもらえたら。欲が浅くて素晴らしいね」伊砂は煽るように手を叩く。それから微笑む。「なんてね。まだまだインターネットには同じような価値観の人がいるから、意見を見たりSNSで繋がったりすることで癒されているんだ。インターネット時代、万歳」
 それならマイナー思想ってほどでもないんじゃないか、と思うけれど――きっとそう言えば、こう返ってくるだろう。
 世界的モラルとして受容が推進されている時点で、反する意見はマイナーそのものだろう、と。
「なにその顔。癒されちゃいけない苦しみがこの世にあるって言いたいの? 時代に適した優しいやつしか幸せになっちゃいけないって言いたいの?」
 そうして、どれだけ攻撃的でも排他的でも、自分こそが追いやられる側だと認識しているのだし、その孤独感と共感者との寄り合いのなかで、深めていくのだ。
 有害な差別心を、無益な偏見を。
 掲示板やまとめサイトで、スイーツ(笑)を筆頭とした女性叩きを読み漁っていた、昔のあたしみたいに。
 血は争えないのかなあ。

「いやいや、幸せになっちゃいけない人間なんてどこにもいない――だからこそ、不幸せになりそうなら修正してあげたいと思う姉心を、少しは汲み取っておやりよ。伊砂さん、自分のほうが賢いと思っているのであればね」
 と。
 あたしの後ろから出てきた兎リアリィは、あたしの右手を、握り拳を長い指で包みながら言った。
 伊砂は目を丸くする。
「誰」
「兎リアリィ」
「何?」
「おれは素甘の彼氏だよ」
「え、声も顔も女でしょ」
「トランスジェンダー。聞いたことあるでしょ」
 当然のように言うリアリィに、伊砂は固まる。樫屋はそんな伊砂の頭を撫でる。何を考えているのだろう、三人とも。
「不幸せになりそうって、どういうこと」伊砂が口を開く。「そんな心配から変えようとするなんて、左利きを無理矢理に矯正する社会圧と何が違うの?」
「違わないよ」リアリィはあっさりと認めてしまう。「正しさなんてない。あるのは好き嫌いで、嫌われるっていうのは害されるということだ」
「嫌われる考えかたは直しなさいって? そんなの同性愛やトランスジェンダーにしたって言える、言われてきたことなんじゃないの?」
「うん。そうだね、その通りだ。翻って、ではどうして現在は肯定の時流となっているのか考えてみようか」
「……そんなの、同調圧力でしょ。ポリコレって数で燃やしてやめさせてるだけじゃん」
「そうだね。つまり、批判的になるのは損な思考なんだよ」とリアリィ。「社会は広くて、人生は移動の連続だ。伊砂さんは同じ考えの人がいる集団にばかりいられるわけじゃないし、その集団のなかでも思想としての立ち位置移動は生じる。何があっても意固地になって偏見を貫くと、いじめられちゃうんだ」
「いじめはいじめられるほうが悪いって話?」
「いじめるほうが悪いに決まっている。動機があったからといって、犯行をしていいことにはならない。ただ社会は甘くない。悪いことは起こるし他人の考えていることは真にはわからない。伊砂さんが、素甘の彼氏がトランスジェンダーだって知らなかったみたいにね」
 伊砂はあたしのほうを向く。「お姉ちゃん、もしかして本当はそこで怒ってただけ?」
「そういうわけじゃないよ。そこでも怒ってたけど、他にも問題発言がいっぱいあったから」
「素甘は嘘をついていないよ。ただ、素甘がおれを愛していなかったら、伊砂さんにこんなには怒らなかっただろう。というかそもそも、おれのお願いで素甘は流行を追うようになったわけだし」
「え」
「おれはファッションブランドをやっていきたいんだ。でも作ることに時間を割きたいから、トレンドを追うのは素甘にしてもらうことにしたんだよ。実際に最先端を着てみてもらって、髪型を作ってもらってさ。手触りとか動く感じは、写真じゃあぴんとこないからね」
 それは本当のことだった。でもあたしは嫌々やっているわけではない。そうして試していくうちに、流行っているもののよさや高等さを知り、価値を心から認識できるようになってからは楽しいのだ。
 とはいえ、伊砂のリアリィに向ける視線に、険が含まれた気がする。
「うん、伊砂さんの思う通り、おれの存在はすっかり、素甘の毒気を抜いた。抜いてしまった、と言うべきかな? そしてその結果、素甘はどうなったと思う?」
「どうなった、って」
「職場で上手くやれるようになった。学校で女子をビチグソ呼ばわりして怒らせてぶん殴られるような子だったのに」
「いやビチグソ呼ばわりしてたの!?」伊砂は驚く。「性器呼びとあんまレベル変わんないでしょ!」
「ちょっとリアリィ!?」
 ここまでの前提が崩れちゃうじゃん……!?
 リアリィはけろっとした様子で、
「ごめん素甘、おれ話聞いててずっと言いたかった」
 と言った。
「聞き捨てなりませんね」と樫屋が言う。「お姉さまも同じことをしていたのでしょう、結局は。倫理的上位のように振る舞ったって、過去は消えませんよ。僕も伊砂も、お姉さまには言われたくないと言わざるをえません」
「うん、素甘の過去は消えない」とリアリィ。「だからだよ。消えない過去を背負っているからこそ、愛すべき妹には同じかそれ以上の過ちを犯してほしくないと素甘は願っているんだ。失言や失敗を重ねて人間は学んでいくのだと樫屋くんは言っていたけれど、しかしその場合の人間とは個人のことじゃない。人間という集団のことだ。先人の失敗から学んでいく、反面教師にしていってこそ人間だろう。同じ轍を踏むなんて愚かだし、愚かなのも人間だけれど、ふたりは愚かでいいの?」
「……愚かであるという自由もあるでしょう」
「伊砂さんはどう思う? 愚かでもいい?」
「いいよ。ていうか愚かなんて主観だし」
「じゃあ話は終わりだ」リアリィは言う。「人間は愚かでいい。偏見から批判したっていい……という世界観で生きていけばいい。でもその世界観なら、流行に乗ったりマイナー思想からなる言動を批判したりする愚かさも、愚かでいいんだし主観なんだから、それでもいいということだね」
 あたしも伊砂も樫屋も、一瞬何も言えない。いま、どこに着地した?
「……え、なにそれ」と伊砂。
「簡単だよ。愚かなのなんてみんなそうなんだから、自分だけ許されたいと思うなよ。自分が許されたいなら自分以外のことも許さなきゃ。自分が許したくないなら自分が許されないことも受け入れなきゃ、矛盾するんだよ」
「……しかしそう言うならば」と樫屋は言う。「自分は許されたいけれど、自分以外は許したくないという愚かさも、許されるべきではありませんか?」
「まあいいけど、絶対それ痛い目見るよ?」

 結局。
 伊砂と樫屋に、あたしとリアリィの言葉が通じたのかどうかはわからないまま、あたしたちは帰ることになった――というか、伊砂と樫屋がどこかに行ってしまった。
 デートと言っていたけれど、言われたことをふたりで咀嚼する時間をとるのか、はたまた急に言い合いをして疲れたからリフレッシュをするのかどちらなのだろう……と思っていたら駅までの道で伊砂にばったり会う。
「樫屋くんは?」
「別れた」
「え」
「だってあいつ、急に、時代の流れを許してみてもいいかもしれませんね、僕も許されたいですし、とか言うから。ふざけんなって」
 ええ……? なんだかよくわからないけれど、リアリィの言葉が樫屋の考えだけを改めさせたということだろうか?
「伊砂の気は変わらないの?」
「変わるわけないじゃん。お姉ちゃんみたいに、彼氏の影響で流行に乗り始めるなんてダサすぎて嫌」
 辛辣な妹である。彼氏の影響で過激化したと聞いていたけれど、案外、樫屋はただ引き出しただけなのかもしれない――甘やかすことで、言葉をゆるくしただけなのかもしれない。
「ていうか、彼氏って言ってくれるんだ。トランスジェンダーは思い込みとか言ってたのに」
「信じてないけど」伊砂はリアリィを見上げる。「お姉ちゃんが同性愛者なのも嫌だから、お姉ちゃんは頭がおかしくて男性だと思い込んでるって解釈することにした」
 それはそれでそういう奇妙な物語みたいになるけれど、いいんだろうか……?
 伊砂の背を見送り、実家から住み家に帰る道中、これで満足したの、とリアリィに言われる。
「後半おれが持ってっちゃったし」
「いいよ別に。あれ以上やってたらぶん殴ってた、鼻を」
「鼻の形、似てたね結構」
「家族ですから」
「……伊砂さんに反省させたかったんじゃないの?」
「させたかったけど、まあそんな効果覿面即改心ってことにはならないとも思ってた。人間、そんなに簡単じゃないし。でもとりあえず、やれることはやれた……いやどうだろ、まあやれたってことで」
 ひとまず、何度も念を押して、お母さんに侮辱的な性器呼びをするなということは言えたのだ。この件に関しては、それ以上のことはできない。
 伊砂はまたそのような素行をしてしまうかもしれないけれど、そうしたらまた叱りに赴けばいい。いつか直ってくれると信じて。
「素甘はさ」リアリィは言う。「あなたには言われたくない、みたいな話のとき、どう感じた?」
「まずビチグソ発言を掘り返さないでほしかった」
「ごめんごめん」
 ごめんごめんじゃないよ。
「それと、自分も過去にやらかしたことがあるなら他人の悪さを指摘してはいけません、状況をよりよくしたいなんて思わず静かにしていなさい……なんて、そんなこと言ってたら世のなか、悪くなっていく一方だと思うから。そういう風に反論できたと思う」
 それが理解してもらえるかはさておいて。
 あたしには最悪な時代があったし、その時代はずっと恥ずかしいけれど、だからこそ少しでも、よりよく生きたいと思う。よりよいと自分が感じる行動を選び続けたいと思う。
 それは自由だ。
 伊砂は今度どうなるかわからない。さらに悪化してもうどうしようもない大人になってしまうのかもしれないけれど、もしもあたしやリアリィの言葉が遅効性で響いてくれたら、もしかするかもしれない。
 高校三年生のときのあたしみたいに。
 そうしたらそのとき、あたしは伊砂がどれだけリベラルなことを言い出しても、笑わずに肯定したい。あれだけ酷いことを言ってクラスメイトを傷つけておいていまさら、とかそんな窮屈なことは言わないようにしたい。
 そうだ。
 過去がどれだけ汚れていようと、現在がどれほど歪んでいようと、大事なのはその先、どうあるかなのだから。
 ……とかなんとか、あんまり言い過ぎると甘いことばっかし言うなよって誰かに怒られそうだけれど、でも色んなことを見つめて考えたり考えを改めたりするためにも、甘味は大切なんですよ?

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