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トマトゥルトマト(短編小説)


 自我? 自意識? が芽生えたのは小学三年生くらいからで、それまで私は双子の姉と間違えられても全然平気だった。何せ顔や声だけじゃなく好みまで同じだったから、求める髪型も服装も運動も全て自然に揃っていたし、その結果として姉の吉村穂月と私こと吉村的子を、誰かが間違えることもしょうがないと思っていた。すっかり許せていたし、ちっとも不愉快じゃなかった。
 けれど小学三年生の秋、珍しく穂月だけが体調不良で休んだとき、担任の惣田先生が私に、
「じゃあ穂月さん、家に帰ったらきちんとプリント渡しておいてね」
 と言ったとき、あ、と思った。
 私は惣田先生が春から好きだったのだ。若い男の先生で、面白くて優しくて格好よかった。それに惣田先生はいままでの担任の先生と違って、私と穂月をまったく間違えない人だったのだ、その秋の日までは。だから惣田先生は特別に感じられて、すごく信じていた。
 初恋だったと思う。
 ここで取るべき行動は、間違えられたことに気がつかないフリをして頷くか、私は的子だよー先生ったら、みたいに明るく訂正するかのどちらかだってことくらいわかっていた。小学三年生でもそれなりに人生を積み重ねているから、気にしてないフリをする大切さくらい知っていた。
 でも駄目だった。
 私は放課後の教室で、受け取ったプリントを握りしめながら、惣田先生の目の前で泣き出してしまった。
 惣田先生はそこで初めて、吉村的子を吉村穂月と呼んでしまったことに気がついたのだろうか。慌てて取り繕おうとした先生の声もなんだか聴きたくなくて、私は走って教室を出ていった。廊下を走るなんて、と思ったけれど、でも先生のことなんて大嫌いになってしまったから、復讐のつもりで走って、そのまま昇降口まで行った。
 誰ともすれ違わなかった。
 家に帰って、お母さんと顔を合わせないように自分の部屋に行った。そこは穂月の部屋でもあった。二段ベッドの上段で寝ている穂月にプリントをあげて、何も言わずに下段に行った。
 どうしてこんな気持ちになっているのだろう。どうして惣田先生に間違えられたら、こんなに苦しい気持ちになるのだろう。先生のことが好きだから? 好きだったらどうして、そっくりな双子と間違えられたくらいで、こんなにもたまらなく辛い気持ちになるのだろうか?
 わからない。きっといまはわからないんだ、と私は思った。もっと泣いていないときに、ゆっくり考えようと考えた。
 パジャマも着ないでそのまま眠った。
 晩ごはんで起こされて、黙々と食べ進めながら、髪を切ろう、と思った。私も穂月も髪が同じくらい長くて真っ直ぐだから、色んな人から間違えられる。短いほうが吉村的子、長いほうが吉村穂月、という風にしたらきっとわかりやすいはずだった。
 私は穂月とは違う人間にならなきゃいけない。
 いつも水道代の節約を兼ねて穂月と一緒にお風呂に入っていたけれど今日は断って、検索した髪の切り方をなぞるように準備をする。古い新聞紙を敷いて、その上で切る。長さはなんでもいい。可愛くしようとかちょっと思わない。穂月と明確に違ければそれでいい。
 さっさとばっさり切って、新聞紙の上に積もった髪やはみ出た髪をビニール袋におさめて、燃えるゴミの袋に突っ込む。そのとき両親に見られて、
「ええ? 的子、あなたどうしたの?」
「え、うわ! マトちゃんなんだその髪、自分でやっちゃった?」
 と騒がれる。鬱陶しいな、と思いながら洗面台で鏡を見ると、いくらなんでも不恰好かもしれないとちょっと思う。というか軽くショックを受けている自分がいて、そもそも髪の長い自分が好きだったんだよな、と気がつく。
 でも自分の好みのままやっていたら穂月と被るんだって。
「どうかした?」と穂月が風呂場から出てきて、私を見てびっくりする。「的子?」
 私は穂月を無視して、とりあえずゴミを捨てる用は終わったのだからと部屋に戻ろうとしたら、母から引き留められる。いくらなんでもみっともないから調整をするとのことで、まあ母が恥ずかしいんだろうな、と思って受け入れる。
 お風呂で髪を整えて、ついでに洗われそうになったけれど、そこまでしてもらうのも悪いから、大丈夫、と伝える。思ったより少ないシャンプーで済む。肩に髪が触れない。そんなふうなことを色々と感じて、改めて自覚する。
 もう違う自分なんだと。もう穂月とは違う髪の長さを持つ、穂月に似ていない女の子なのだと。
 こんな簡単なことだった。もっと早くからこうしていれば、惣田先生だって。
 お風呂から上がって部屋に戻ると穂月が髪を切っていた。私と同じように新聞紙を敷いて、私と同じハサミで、私と同じ乱暴な短髪に。
「なんで」と私が訊くと、
「的子、惣田先生と何か悲しいことがあったんでしょ」と穂月が言う。「好きって言ってたよね」
「なんで」
「的子の髪が短くなったのは、的子が辛いからでしょ」穂月は私を抱きしめる。「辛いこと、悲しいこと、私も背負うよ。双子だから」
 それから穂月はリビングに行く。両親がまたびっくりしている声が聞こえて、ちょっとちょっとこれ、と嫌な予感がする。
 的中。母は穂月を私のときと全く同じように整える。
 戻ってきた穂月の頭を見て、私は泣いてしまう。簡単に作った差異なんて簡単に埋められるんだ、と私はそのとき知る。
どうにもならなさにぼろぼろ泣き続ける私の頭を、穂月はゆっくり撫でた。
「大丈夫だよ、的子。一緒だから、私たち」
 嫌だって言ったらどんな顔をするだろうか?
 帰ってきてすぐに寝てしまったから夜は目が冴えてしまっていて、遅い時間に台所に行くと父が起きている。父はコーヒーを飲みながらスマートフォンで映画を観ている、いつもの通りに。
「ん。ああ、マトちゃんか」父は私の気配に気づいて、映画を止めてこちらを見る。「まだ慣れないな、その頭」
「ねえ、お父さん」私は言う。「私と穂月って、違う?」
「んー? お前ら双子だし、同じもん好きだし今日も同じくらい切っちゃうし、すげーな双子って、とか思うくらい似てるよ」と父は言う。「別に双子ってみんなそんなに一緒になるもんじゃないらしいぞ。なんでそんな一緒なんだ?」
「……知らない」
 父に静かに失望しながら牛乳をマグカップに淹れて、電子レンジで温める。
 待ってる間に、でも、と父が言う。
「それだけ同じやつがいたら、寂しくなくていいよな」
 それを聞いて私は気づく。私は寂しいのだと、気がつく。寂しかったのだ、惣田先生に、穂月と間違えられて。誰かが私のことを、私じゃない誰かと間違えるということは、本当はすごく寂しいことなのだ。そしてこの寂しさは、少なくとも父には伝わらない。
 誰かにわかってもらえない気持ちというものがあるのだと、初めて知った。
 ホットミルクを飲んでベッドに寝転んで、私は私の寂しさをどうにかしないといけない、と思った。間違えられることは、私にとっては寂しい。私は誰にも、誰かと間違えられないような人間になりたい。
 私は見上げる、上の段の穂月を。私は吉村的子だ。吉村穂月とは違う生き物だ。違う生き物であることを示さないといけない。その目印を作らないといけない。

 ずっと伸ばしていた髪が短くなったから、それにぴつたりと合う服をひとつ買いに行かないといけない、と母は言った。服は髪形と一緒に現れるものなのだから、大事なときには、ぴつたりなものを着ないといけないんだよ。母はどうしてか、ぴつたり、と言う人だった。ぴつたり、と幼稚園で使ったとき、双子そろって笑われたことがあった。
 明るい、白っぽいお店のなかで女の子用の服のコーナーに連れていかれた。私が、この服がいい、と思ったものを、穂月も同じように見ていることに気がついた。
 ああまずい。私はこの服を選んではならない。私は穂月と違う服を選びたい。けれども、他のどの服を目に入れても、じっと見つめても、どうでもよいものに見えた。最初にほしいと思った服だけが、一番いい飴玉のように惹かれてやまなかった。
 でも、私は違う服を選ばないといけない。穂月に諦めてほしいとねだるのは間違っているというか、不自然だと思った。母はその不自然を見抜いて、私を言い包めようとするに違いなかった。
「お母さん」穂月が言う。「私、この服がいい」
「いいね。穂月にぴつたりだと思う」母はまた、ぴつたり、と言って笑った。「的子はどうする?」と訊くけれど、答えは決まっているでしょう、とそのえくぼが言っていた。
「お母さん、私は」息苦しくなりながら言う。「どれもいらない」
「ええ?」母は首を傾げると、穂月が持つ服と同じものを手に取って私に渡した。「母さん、これとかいいんじゃないかと思うけど。好きな色でしょう? それに、穂月とお揃いだし」
「いらない。別のお店で買いたい」
「別のお店なんて、うんと高いか、うんと遠いよ」母は面倒そうに言う。車は父だけが動かせるもので、その父は今日は仕事だった。「この服にしなさい。ぴつたり合うサイズだし、的子に絶対に似合うから」
 そんなことはわかっていた。その服とはきっと、運命的な出会いだった。それを身に纏う私を想像すると、どこか楽しい気持ちになった。けれどそれは、穂月と同じ服なのだ。穂月と同じになるということなのだ、その服を着るということは。
「いらない」
「変なことを言って母さんを困らせないで。素直でいることが一番だよ」
 素直とはどういうことだろうか。私はその服を着たいけれど、穂月と同じ服になってしまうから着たくないのだ。どちらも本当の気持ちなのだけれど、どちらを大切にすることが、素直なのだろうか。
「お母さん」穂月が言う。「的子が、可哀想だよ。的子が、いらないって言ってるよ」
「穂月に何かをあげるなら、的子にもあげないといけないの。不平等はとてもよくないことだから。的子だけに服を買ってあげないなんて、ありえないの」
「だったら、私もいらない」
 穂月はそう言って、服を戻してしまった。
 いけない、と私は思った。穂月が結局それを着ないのであれば同じことだし、それに、穂月だって私と同じくらいその服のことが好きなはずだった。好みが同じなのだから。でも、穂月は私のためにそれを諦めてしまおうとしている。私のせいで、穂月が損をしようとしている。
 それだったら、と私は母から服を受け取る。
「ごめんなさい。この服、私と穂月に、買って」
「まったく。最初からそうしていたらいいのに」
 母は少し怒ったような声でそう言うと、その服を私と穂月のぶんカゴに入れて、会計をした。あの服を手に入れられることは嬉しかったけれど、結局は私と穂月の服に違いを作ることはできなくなってしまった。
 服を買うお金は、母のものだ。だから母が納得しなかったら、服を買わないということもできないのだ。私は、いつか働けるようになったら、きっと自分のためだけの、穂月の持っていない服を、ひとりで買おうと思った。
 同じようなことは何度もあった。なにせお小遣い制じゃないから、ほしいものは母に言って一緒に買うものだったし、そのとき必ず穂月もいたから、同じものが与えられた。私はそのたび、拒んでみるけれど、そうすると穂月が諦めようとするから、折れるほかなかった。あるとき、私が同じように拒んだら母が、
「いいかげんにして。どうせやっぱり欲しいって言うのに、なんだってそんなふうに嫌々をするの? 母さん、そろそろ本当に疲れてしまう!」
 と私に怒鳴った。母が屋外で大きな声を出すことは、思えばあまりないことだった。私は、たしかに母からするとわけがわからないだろうし、こういう抵抗のようなことはしないようにしようかと反省しかけるけれど、その日の晩、
「そういうことがあって、的子を強く叱ってしまったの」という母に、
「的子も反抗期なんだろうね」と父が言っているのを聞く。夜のリビングで、トイレに起きた私は廊下でその会話を捉える。「子供はみんないつかそうなるものだよ。親は終わるまで、根気よく待ってあげるしかない。いつも子供の面倒を見てくれてありがとうね」
 何を言っているの? 本当に、何を言っているの?
 と私はすごくむかついて、さっさとトイレを済ませてベッドに戻る。スマートフォンで《反抗期 子供》で検索する。色々と見て、やっぱりむかっ腹が立つ。いつか終わるとか、適当にやり過ごしていていいとか、愛してると示していれば落ち着くもの、なんてことが書かれている。
 季節とか、天気とか、風邪みたいに、時間が解決するし、そうじゃない状態になることが解決だって? 私の、穂月と間違えられる人間のままでいたくない、穂月とは違う見た目をしている違う人間になりたいって気持ちが? 全然そうならなくって心から抱えて苦しくなるこの望みを、寂しさを、そんな気にしなくてもいいものみたいに扱うことが普通なの? そんなことを大人は大人に推奨しているの?
 世界にとって私の気持ちはそんなにどうでもいいの?
 だったらすっごくがっかりだし、死んでも思い通りになってやりたくない。舐めるな、と言いたい。私を舐めるな。私の心を舐めるな。
 絶対に諦めない。絶対に私は穂月と違うものを手に入れて、身に着けて、それを穂月と私の違いにする。そうして初めて、私は確実に吉村的子になる。
 吉村的子がここにいることになる、誰にとっても。

 それでも義務教育の内は大したことはできない。同じ髪型で同じ服を着て学校に行き、遠足に行く。集合写真を撮って、的子いた、と友達が穂月を指さす。いままでスルーしていたのにこれからもスルーしないのは変だから、我慢する。もっと自分に正直に生きたいけれど、キャラってものがある。
 キャラの範囲内で穂月と差異を作れないかと考える。字の書きかたを少し変えてみたり、声の出しかたをちょっとおかしくしてみるが、熱でもあるんじゃないかと心配されたので、保健室で寝て起きたらすぐにやめる。
 うん。少なくともずっと私を見ていた友達にとって、私が穂月と差をつけようと頑張ることはことごとく、らしくない振る舞いになる。なぜなら穂月と一緒であることが私らしさだから。ちぇっ。ばーか。
 心配されないようにこれまで通りをやっていくうちに、私ってなんなのだろう、なんで我慢しているのだろう、なんでこんなことを続けないといけないのだろう、と思う。といっても本当に自然体で過ごせばいいだけなのだけれど、この自然体を壊したいって気持ちがずっとうずいている。
 でも自然体じゃないことってばれるのだし、自然体じゃなくなった理由は誰にもわからないのだから、異常事態と捉えられるのだ……。だったら、誰かにこの悩みを打ち明けて、見守ってしまうべきなのかもしれないけれど、誰にわかるんだろう? この気持ちが?
 私と穂月みたいに何から何までそっくりな双子が同じ学校の同じクラスに入っちゃっている状況にいる子は、このクラスにいない。学年にもいない。地域全体にいないんじゃないだろうか? そしてそうじゃないと私の気持ちをきちんと受け止めてくれないのではないかと思う。父のように、同じやつがいるってうらやましい、みたいなことを言ってきたら、すごく嫌な気持ちになるだろう。
 私と同じ人がいればいいのに、なんてもはや強烈に矛盾しているようなことを思いながら過ごしていると、春休み前、クラスメイトの鈴井に、わざわざ学校の近くの公園まで呼び出される。
 鈴井のことは知っている。私と穂月の間にたまに入ってきて喋ったり遊んだりする男子だ。もうひとりの男子の瀬尾と四人組になって放課後にボール遊びをやることがある。穂月と鈴井、私と瀬尾ってタッグ分けでドッヂボールやサッカーをする。四人でコンビニでお菓子を買って食べたりする。そういう四人組の友達だ。
「吉村――いや、穂月さん。好きだ」
 鈴井は私に言う。
 そういえばあんたずっと私のことも穂月のことも吉村って言ってたね? 言うとき顔を見て言うからそんなに困らなかったけれど、それって女子を名前呼びしたくないとかじゃなくってどっちがどっちだかわかってなかったからなのかな?
 これって訂正するべきなのかな。私は穂月じゃなくて的子だよ、穂月を呼んでくるから改めて言いなよ、とか。
 どうして私が鈴井の馬鹿のためにそんなことをわざわざしないといけないのかな?
 ちょっと最近むかつきがたまっていたのもあって、私は私の暴力欲に身を任せる。
「きもい。何、名前なんか呼んでんの? うざい」
「え」
「大嫌い。死んで」
 言いながら全身がぞわぞわと、暑くて寒い感じになる。鈴井だって馬鹿だけど悪いやつじゃなかったし、私はこういうことを言うやつじゃなかったのだ。こんなことを言ったら鈴井が傷つくことも、もう四人で遊んだり話したりできなくなることも、わかっているのだ。だというのに。
「吉村!」どこかから男子の声。鈴井が振り向いたほうを見ると瀬尾だ。見守っていたのだろうか?「お前、それ酷いぞ! 最低!」
「うるさいな。気持ち悪いんだよ。喋るんじゃねえよ」
「吉村」鈴井がちょっと涙声で言う。「ごめん」
「うるさい」
 私が言うと瀬尾が私の胸を殴る。苦しい。背中から倒れて、咳がすごいときみたいに痛くなる。起き上がらないことにすると、瀬尾が私の腰を一発蹴って、それから鈴井に止められる。
「瀬尾! いい! やめろよ!」
「だってこいつ最低じゃん!」
「いいから! 吉村、……ほんと、ほんとうに、ごめん」
 それだって穂月に言ってるんでしょ? 私じゃないでしょ?
「クソどうでもいい」
 青い空を見上げながら、これ頭とか服とか汚れちゃってこのまま帰るのか、とか思いながら言った。
 鈴井と瀬尾が公園から出て行って、寝るのも飽きたので立ち上がってみると、他の下校後の子やおじいさんがいつの間にか公園にいて、こちらを不安げに見ている。私は気にしていないふりをしながら家に帰る。
 母には、友達と喧嘩をした、大丈夫、とだけ伝えておく。
 お風呂に入って出ると、まだ女の子の友達と遊んでいるはずの穂月が家に帰ってきている。
「おかえり、穂月」
「的子」穂月は私を睨む。「何かした? 鈴井と瀬尾に」
「……お母さんいるし、部屋行こ」
 穂月は大人しく従ってくれる。部屋の中で、横並びのお互いの学習机につく。
 私が言う。
「鈴井から告られた。ふったら、瀬尾が殴ってきた。それだけ」
「それだけ、じゃないでしょ」穂月は言う。「それだけだったら、どうして、私のほうに、穂月マジ最低、とかくるの。瀬尾から」
「私と穂月のこと、間違えているんじゃないの」私は言いながら、我ながら嘘は言っていないな、と思い笑ってしまう。「双子で、似てるもん」
「的子さ、私のふりしたでしょ」
 どうしてわかるのだろうか。双子だからだろうか? だとしたら、呪いみたいだと、思った。
「うん。だって鈴井、穂月好きだーって私に言ってたもん」
「穂月じゃないよって言えばよかったんじゃないの?」
「穂月は鈴井と付き合いたかったの?」私は言う。「私と穂月を間違えるような男子を、彼氏にしたかった?」
「……そういう問題じゃない」穂月は言う。「瀬尾があんなに怒るんなら、優しくふらなかったんでしょ? そんなことをしたら、もう四人で遊べなくなるのに! どうして、そんなことをしたの」
「穂月だったら優しくふってた?」
「……うん」
「じゃあ、それが理由だけど」
「じゃあって何」
「私は、穂月と、一緒にされたくない」私は言いながら、少しだけ泣いている。「穂月と間違えられることが、耐えられなくなっている」
「そんなの、……私たちはそっくりだから、……しょうがない、じゃん。双子なんだから、そういうものじゃんか」
「そっか、わからないんだ」そういえば惣田先生の件も穂月に話していなかったっけ。じゃあわからなくて当然だろうか。「よかった。私と穂月の違いだ」
「……意味わからない」
 と穂月が言ってくれるのが、とても嬉しくて、でもどうしてか胸が痛い。
 それから私たちは小学四年生になって、五年生になって、六年生になる。クラスが違っても間違えられる。クラス対抗のバトンリレーで私のクラスの子が私の隣を走っていた穂月のバトンを奪ってしまって反則になったり、別のクラスの教師が「あなたはこっちでしょう」と私を穂月のクラスに引き込もうとしたりする。馬鹿。
 ひそかに動画とかを参考に眉毛を整えて穂月と差をつけてみたりするが、女子しか違いをわかってくれないし、いつの間にか穂月も整え始めるので差が埋まる。同じ動画を観てるわけじゃないよね?
 ある日の夜に初潮がきて、友達から既に色々と聞いていたから冷静に対処して母に報告したら、昼間に穂月のほうもきていたし自分で対処していたと言われて、マジ気持ち悪い運命だな、と改めて思う。
 運命が私と穂月を同じ扱いにしている。
 運命きもい。
 この運命に勝てるようにならないと、と私は勉強熱心な穂月の逆を行くように、中学から部活で遊んでばかりになる。
 親に穂月と比べられて叱られるが、それでも宿題は出しているし授業もぱっと見では真面目に受けてはいるから成績は低くない。穂月は満点を取るが私は及第点で満足する。差異があればいいのだ。
 高校を選ぶ段階になって、穂月と違う学校に行けば違う制服を手に入れられる、ということに気が付いて嬉しくなる。穂月がセーラー服の高校を選ぶようなので私はブレザーの高校を目指す……といっても頭のよくない高校だから目指すってほどじゃないけれど。
 親からは反対されるけれど、何を言われても勉強をしないから、もう穂月と同じ高校に行くのは現実的じゃないと理解してもらえる。
 穂月が言う。
「的子、逆張りで人生決めてたら絶対ろくなことにならないよ」
 まだ中学生のくせに、それに穂月は穂月の人生しか送ってきてないくせに、何を断言しているんだか。
「穂月の人生と一緒にしないで」
 中学生が終わるとともに、穂月とはあまり話さなくなる。

 狙い通りに別の高校に進学する。制服は可愛いけれど、金髪に染めている人とかいるし、二年生の男子トイレにコンドームが落ちてたみたいな話が耳に入ったりする。馬鹿ばかりだ。でもメイクとかしてるくらいじゃ怒られない校風のおかげで探求ができるし、メイク動画の投稿者に詳しい子も多くて楽しい。穂月の学校はバイトも化粧も禁止なくらい校則が厳しいらしくて、穂月も律儀にそれを守って保湿とにこ毛を剃る程度のことしかしないから、どんどん穂月と差を作ることができて嬉しい。
 でもそれはあくまでもメイクができているときだけで、すっぴんだと普通に穂月と双子な感じになる。髪の毛を染めてみるけれど、「ゲームの色違いキャラみたいだな」と父から言われて嫌な気持ちになる。何も言わないでほしい、一生。
 私は髪型を模索するが、友達からはいまの髪型が一番似合うと言われる。そんなことはわかっているのだ。でも私が一番好きで私に一番似合う髪型は、私と被るとか気にせずに生きている穂月と同じものなのだ。私は黒髪ロングの穂月と対象にするように、茶髪ショートパーマにする。……意外と似合わなくもない。
 部活には入らず、放課後はだいたいバイトに費やしている。なるべく自給の高いところを探して頑張る。帰りが遅くなって、父から心配されるけれど、余計なお世話だと思う。メイクや染め直しにも色々とお金がかかるし、それに大学生になったら整形とかしたい。
 たとえば姉妹そろって色々あって髪の毛を全部剃ることになったとしたら、やっぱり同じように見えてしまうと思うから……そんなシチュエーションはないと思うけれど、そうなったら同じになる、という事実に思い至ってしまったから、耐えられない。
 これも一種の恐怖症だろうか?
 とにかくお金が欲しいのだけれど、バイト終わりの夜、駅前を制服で歩いていたら、父くらいの年齢のおっさんから「三万でどう?」とか言われるのには乗らない。知らない人についていっちゃいけないとか、売春への抵抗感というのもあるけれども、私は同じ高校の子にパパ活に手を出してる人が多いことを知っていて、じゃあ私もいけるだろうって思われてそうなのが嫌だった。
 同じ制服だからって一緒にするな。
 そのおっさんの話と私の気持ちを友達に話してみると、同情をしてくれて一緒にそのおっさんを貶してくれるけれど、
「そもそも自分の年齢考えろよって感じだよね」
「ね。そんなんだからその歳で独身おじなんだよって」
 と笑う彼女たちは、どこまで私の気持ちを理解できているのだろう。私が苦しんでいるから癒そうとしてくれているだけであって、テンプレとしての同情と同調でしかないのだろうか、と考えてしまう。
 その子たちとも差を作りたくなり、教室で少年漫画を読んでいるとオタク系の子から「吉村さんそれ好き? 面白いよね?」と声をかけられる。
「あ、うん。面白い」まだ途中だけれど。
「え、誰好き?」
「乾山くんと……漆原先輩」
「え乾漆!? 吉村さんそっちかー、意外!」
「は?」
「うちは漆喜漆だからさ、あっでも別カプ嫌とかじゃないからね? 乾漆もいいよね原作でも顔の距離ぐっと詰めてくる乾山くんに漆ちゃんがさ、ふふふ」
 いやまあ面白いけどこの作品のキャラをゲイにする二次創作には欠片も興味ないよ? ただひたむきに頑張ってる乾山くんが好きで軽そうだけど夢には真剣な漆原先輩が好きで、それだけなんだけど? ていうか漆原先輩は女の子とめちゃくちゃ付き合ってるキャラなのになんでそうなるのか意味わからないんだけど? この漫画のこのキャラが好きだと腐女子と一緒にされんの? と腹立ったので机を蹴って威嚇して黙らせる。その漫画を読まなくなる。
 私は気づけば穂月以外の人と一緒にされるのも嫌になっている。いまどきの若い子だからとか、そのキャラクターが好きな女子はどうとか、SNSでこういう投稿をする人間はこうだとか、全部クソくらえと思う。
 個人個人の人生や考え方の違いを考慮されずに記号で判断されることは、人違いをされることと似ている。
 失礼で、自分がパチ物のような気すらして、寂しい。
 誰とも一緒にされたくない。誰かにわかってほしい。それって両立するのだろうか? 誰かに、心からわかってもらえるということは、普遍的であるということじゃないだろうか。普遍的であるということは、つまり無二というわけではないということだろう。無二でなければ、間違えられてしまうかもしれない。
 どっちも、を求めてしまってはいけないのだろうか?
 矛盾を抱えたまま大学生になって、親の同意がいらない十九歳になったタイミングで整形。鼻をいじる。顔の中央にあるものだから変わるだろうと思う。夏休みに合わせることができたのでダウンタイム中は友達と合わないことができる。
 またぞろ父に何か言われるかと思ったけれど、母が言う。
「的子。どうしたってそんなことをしてしまったの? 父さんと母さんがあなたに贈った顔貌が、そんなにも気に食わなかったの? それでもあなたという人には、元からの鼻こそがぴつたりだった。高校生のころから本当は思っていたけれども、あなた、ずっとずっと、似合わないことばかりを選び取っている。何もかも、ぴつたりから外れていて、母さんいつだって気にかけていたのよ」
「私が私のなりたい自分を選んで何が悪いの? 私に似合っていたって、私の肌に合っていなかったら、捨てたほうがいいに決まってるでしょ!」
「そうなのかもしれないけれども、でも、ぴつたりではないの。的子。見つめていると、母さんはどうしようもなく不安になってしまう」
「勝手に不安になってろよ! 他人に安心していただくために私は私をやってるわけじゃないんだよ! そんなこともわかんねえのかよクソババア!」
 私が怒鳴ると、傍で聞いていた父が立ち上がって、
「マトちゃん親に向かって」
 と言いかけたところで母が私の頬をビンタする。
 耳鳴り。
 母は泣きながら私を睨む。
「どうして?」私の耳が聞こえるようになるのを見計らったみたいなタイミングで母は言う。「どうして、的子は、穂月のように育たなかったの?」
 穂月は高校生になっても大学生になってもいい子だった。校則に従って髪を染めたりせず、真面目に部活に打ち込んで大会に出た。私よりもうんといい大学に行った。この前は大学でできた友達と少し遠くに旅行をして、私を含めた家族のお土産を買って帰ってきた。穂月はいつだって父のことも母のことも労わっていたし、いつまでも暴言を吐かなかった。素直で、真面目な女のまま育っていた。
 私も穂月と同じ人間になるべきだった?
 同じくらい勉強をして、同じ学校で同じ友達を作って同じ部活に入って、色々な物事を同じように素直に受け取って同じレベルの言葉を返す、同じ見た目の同じ人間になってほしかった?
 そのために、同じものを与えてきたの?
「吉村穂月と」私は言う。「吉村的子は、違う人間、だよ」
 私はそれだけ言って、ビンタとかやり返したい気持ちを我慢して部屋に引っ込む。
 穂月は勉強机で課題か何かをしていた。こちらを一瞥すると、すぐにパソコンに戻った。
 どうしてか涙が出る。
「マトちゃん」廊下から父が声をかけてくる。「お母さんに謝ったほうがいい」
「うるっ……せえな」
 わからないかなあ。きっと謝ったほうがいいってことがわかっていて、それでも謝らないことを選んでるんだよ。謝らないを選んで、私は悪くないと主張しているんだよ。どうしてわざわざ教えにくるんだよ。舐めてんじゃねえよ。
「お母さんはマトちゃんのことを思ってるんだよ。愛してるから混乱してるんだ」
「私じゃないでしょ。私じゃなくて、理想の子供でしょ。ってか、穂月でしょ」
「そんなことない。穂月と的子が違うことなんてわかってる。僕もお母さんも、お前らを間違えたことなんてないだろ」
「間違えたことないだけで、違うなんて、思ってなかったでしょ」
「そんなこと」
 私は置時計をドアにぶん投げる。大きな音がして、父の声はそれからしなくなる。置き時計は電池を放り出して床の上に横たわっていた。

 夏休み明け、友達から色々と訊かれる。整形は割といい感じに成功していて、違和感こそあれ不快感のない鼻だ。うん、まあ、いいんじゃないだろうか。
 本格的に秋になったころ、同じ学部の佐伯くんと仲良くなる。ある日、佐伯くんに色々な愚痴を聞かせてみると、
「そうだね。的子さんは的子さんで、お姉さんはお姉さんだ。違うようになったってなんにも変じゃないし、悪くなんてないのにね」
「あくまでも何歳だとかどこの学校だとかはその人の一要素でしかなくて、他にも色々な人生経験や考え方で構成されているものなのに、ひと括りにして軽んじるなんて失礼だよね」
「大丈夫だよ的子さん。自分がないなんてことない。お姉さんと違う道を選ぶことが目的だったとして、そこで具体的にどの道を選ぶかだって、的子さんの意思で決めたことなんだから。実際に選んで積み重ねてきたことこそが的子さんだよ」
 と具体的に理解したうえで肯定をしてくれて、私はうっかり好きになってしまう。
 付き合う。
 何度かデートをする。佐伯くんは私の知らないような面白いところにいっぱい導いてくれる。そして私が何か感想を言ったりほしいものを選んだりすると、
「的子さんは本当に個性的だね」
「的子さんみたいな人とは出会ったことがないな。素敵だなあ」
「新鮮ですごく面白い。的子さんとデートができてよかった」
 と言って笑う。
 私はとても嬉しい。私という存在が唯一であることを、そうしてほしいと頼んだ覚えもないのに肯定してくれて、なんだかこの人こそ運命の人なんじゃないかとすら思えてしまう。
 でも一か月で別れる。
 一か月記念ということで初めて佐伯くんが独りで暮らす家に行ったとき、食後に急に押し倒されてびっくりしている間に初キスを奪われて、それから身体をまさぐり始めたので本気で怒って拒否して、どうしてこんなことをするのか訊いたら、
「ごめん、家に来るってそういうことかと思って」
 と答えられたのだ。
「そういうこと、ってどういうこと」私は距離を取りながら言う。「家に行ったらキスもセックスもしていいなんて、私、言ってないよ」
「……ごめん」
「ごめんじゃねえんだけど。どういうこと?」私は言いながらもう思い至っていて、泣きながら続ける。「どっかの、恋愛の記事みたいなの読んで、私じゃない誰かが言った、そういう意見を、私もそうだって思って、一緒くたにして、こんなこと、したの?」
「……記事っていうか、元カノ」
「ぶっ殺すぞ! 最低! 死ね!」
 私は叫んでアパートから出て行って、泣きながら駆け抜ける。
 私自身を見てくれているように思えていた対話も、重ねたデートも、全部、元カノが喜んだことを私にもやっていただけだったんだろうか? 私と元カノを、女ってだけで同じように扱っていて、私はそれに気づきもせず浮かれていたのだろうか?
 だとしたら、いままでの全部が、気持ち悪い。
 食べたばっかりだったのもあって、路地裏で吐く。
 最悪だ。全部。全員最悪だ。どいつもこいつも、ひとりひとりのことなんて、私そのもののことなんて、ちっとも見ちゃいないし、見る気がないんだ。平気で他人を別の他人と同一視して、あてはめて、使い回してるんだ。優しい顔して、そんな省エネをかましているのだ。ふざけるな。クソ。私自身のことなんて誰もわかってくれていない。そんな人はこの世のどこにもいない。悲しい。軽んじられた。悔しい。
 私が私以外とは違う存在だって、違う存在として私がきちんと存在しているんだってことを、誰も認めてくれない。
 寂しい。
「大丈夫ですか」
 と女の人から声を掛けられる。大丈夫です、と言おうとして顔を上げると、目の前に、
「穂月」
 私を見下ろして、穂月が手を差し伸べていた。まともに顔を合わせたのは久しぶりだった。穂月は子供のころからあまり変わらないような、それでも筋肉みたいなものがついたような、顔立ちをしていた。小学生のあのとき切ってから、ずっと伸ばしている長い黒髪。
「的子だよね、やっぱり。立てる?」
「大丈夫だから、……酒飲んで、酔っただけ」
 私はそう言って自分で立って、穂月から逃げるように速足で去った。私はもう穂月とそっくりじゃない。髪型も髪色もメイクも鼻のつくりも違う。だからもう気にせずに生きていくべきなのかもしれない。けれど、そもそも、穂月がいなかったらこんな気持ちになっていなかった。誰かと混同されることだって、もしかしたらへっちゃらだったかもしれない。でも双子の姉の穂月がいて、私とそっくりだったから。
 私は穂月が憎い。実の姉だけれど、実の双生児だけれど、だからこそ憎い。穂月がああして生きていることで、穂月が私の理想を身に纏っていることで、私はどんどん、あらぬ方向へ歪んでいっている気がする。
 いつだったか言われた《的子、逆張りで人生決めてたら絶対ろくなことにならないよ》という穂月の言葉が的を射ているようで余計に苛々するが、きっと人生は長い。私の結末なんてものは穂月にわかるはずがないのだ。私と穂月は違う人間なのだから。
 悲しみから怒りに変わって少し元気が出て、独りでバッティングセンターで打ったり喫茶店を巡ったりして落ち着いてから家に帰る。こういう風に拒絶したあと同じ部屋の二段ベッドで眠るのもシュールというか、理不尽な気まずさを感じるので、独り暮らしをしたい、と心から思う。
 次の日、佐伯と付き合っていたときと違って単独で登校していた私に大学の友達の日下部さんが声をかける。佐伯はどうしたのかと訊かれたので、素直に別れたと伝えた。理由も訊かれ、少し誰かに話したかったのもあって細かく語ってしまう。
「それは佐伯がマジでクソ」と日下部さんは真剣に怒ってくれて、それで私としてはもう十分だったのだけれど、そのとき別の友達や友達の友達と合流して、当然の流れで佐伯が私にしたことが共有される。私が何も言わなくても日下部さんがずっと喋っていて、「佐伯ありえなくない?」「吉村が可哀想だよね」と添えるのに周りは同調しているけれど、これは私の気持ちに同調しているのか日下部さんの気持ちに同調しているのか。
 気づいたら日下部さんは七人くらいに私と佐伯の話を伝えているけれど、だんだん《ふたりきりになったからって急に押し倒してきた》が《レイプ未遂》に変質していくのを感じてちょっとストップをかける。
「えっとね、日下部さん? 私はそこまでの表現をしたいわけではなくて」
「でもレイプ未遂でしょ? 恋人同士でも成立するよ。同意なくキスをして性行為を始めようとしていたんだから。本当に最悪なクソだよね」
「そうだけれど」だけれど、なんだかそれは違う……と思う。佐伯のことを庇うつもりも許すつもりもないけれど、だからって大事が過ぎると、私は感じるのだ。怖かったエピソード、傷ついた経験、クソだった元カレ、それくらいの話でいきたいのであって、犯罪の話にまで発展させたいわけではなかった。
 一緒に怒ってくれることはとても嬉しいけれども。
「我慢しないでいいよ吉村」日下部さんは言う。「怒る権利があるから。大丈夫。怖かったでしょ、あたしが望み通りにするから」
 望み通りって何?
 と困惑していたら講堂にイヤホンをした佐伯が入ってきて、日下部さんが脚を伸ばして引っかけて佐伯を転倒させ、戸惑う佐伯の頭部に、おそらくステンレスの水筒を叩きつける。
 え?
「何やってんの!?」と一部始終を見てた男子も女子も叫ぶ。私は硬直している。日下部さんはもう一回水筒で殴ろうとして、佐伯は這うようにそれから逃げる。
 講堂の端まで逃げた佐伯に日下部さんは、
「土下座しろ佐伯! 土下座! 土下座だろてめえ!」
 と叫び、椅子から立ち上がる。まだ殴るつもりだ。
「日下部さん!」私は彼女の右腕を掴んで全力で抱き寄せる。日下部さんは力が強くて、気を抜くと振りほどかれそうだった。「やめて! 日下部さん!」
「吉村! あたしやるから! 佐伯マジ土下座させるから!」
「なんで! そんなこと望んでない!」
「我慢しなくていいから!」日下部さんは言う。「佐伯のことなんて許せないでしょ!? あたしが吉村の代わりに佐伯しばくから!」
「代わりって何! 望んでないって! そろそろ教授来るよ!」
 ざわめきを残したままの講堂に教授が入ってきて、講義が始まる。
 講義の途中で佐伯が、
「すみません、気分が悪いです」
 と教授に申し出て、講堂を退出する。
 頭の衝撃で体調不良? それって大事になりえるんじゃないの?
 講義が終わってから、私は日下部さんを空き教室に呼ぶ。
「暴力なんてしてほしくなかった」と改めて伝えると、
「吉村は優しいなあ。でも怒っているでしょ? 許せないでしょ佐伯のこと」
「そうだけど」
「ぶっ殺したいでしょ?」
 大学生にもなってそのような言葉を聞くと思わず、私は息が詰まる。日下部さんは至って真面目な顔で言っている。
「そんなことは思っていない。殺すなんて」
「我慢しなくていいよ。吉村は酷い目に遭った。佐伯に軽んじられて、犯されるところだった。そんなクソ野郎はタコ殴りにして磔にして目玉えぐって歯を全部へし折って爪を一枚残らず剥がして火あぶりにしちゃいたいでしょ?」
 日下部さんは何を考えているんだ?
 そんな残虐なことを、空想にとどめずに本当に実行するべきことであるみたいに、真剣なトーンで語るなんて。何か似たようなことで深い傷でもあるのだろうか? いままで知らなかったけれど、日下部さんにだけは佐伯との話をするべきではなかったのだろうか?
「話を聞いただけのあたしが、こんなにも佐伯を許せないのだから」日下部さんは言う。「当事者の吉村は、本当はもっと傷ついて怒って、許せないでしょう?」
「……日下部さん、やめて」
「吉村、大丈夫。吉村にはちゃんと佐伯に怒る権利がある」
「日下部さんと私を一緒にするの、やめて」私は震えながら言う。「私は、日下部さんみたいに、酷い人じゃない。私だって怒ってるけど、それは日下部さんの怒りとは、質が違う。私の気持ちを、勝手に代弁しないで」
 私と日下部さんは、他人なんだから。
 同じ気持ちだなんて――思わないで。
 私が突きつけるようにそう言うと、日下部さんは驚いたような顔をして、それから泣き出す。
「ひどい」
 日下部さんはそれだけ言って、泣きながら教室を出た。追ったほうがよいだろうか? 佐伯を大学の敷地内から探し出して攻撃の続きをするつもりかもしれない。少し迷って、放っておくことにした。私はもう日下部さんと関わりたくなかったし、日下部さんも私に対してどう考えているかわからない。追撃のようなことをして、私が水筒で殴られるかもしれない。
 独りで空き時間を潰していると、救急車のサイレンがどこかから聞こえた気がした。佐伯はしばらく大学を休んで、それから登校してきた。日下部さんは大学のなかで暴力をふるったとして停学になった。私は事情を聞かれて、正直に「佐伯くんに対するプライベートな愚痴を日下部さんに話したら、日下部さんの正義感が暴走しました」という旨の話をしたら、とくに咎められることはなかった。

 日下部さんとの一件があってちょっと人間関係に疲れて、友達と距離を置いてバイトを多く入れる。高校時代よりもバイトばかりになる。お金を貯める。使い道はある。いい加減に独り暮らしをしたい。大学在学中に引っ越すなんて手続きも大変だと親に言われるけれど、人生のなかで引っ越しても煩雑な手続きが付いて回らない時期なんてそうそうないんじゃないだろうか? どうなんだろう?
 私がただそうしたいだけなので周りは巻き込めない。お金の用意も引っ越し業者とのやり取りも荷造りも、秋の終わりから三月までの間に自分でやる。小学生時代のアルバムとかを見返しながら、自分でも集合写真のどっちが穂月でどっちが自分だかよくわからないかも、と恐ろしくなる。何より、外からそんな風に間違われる双子の片割れであることに、惣田先生の一件があるまで気づいていなかったのだ。
 自我がないって恐ろしい。
 自我があるのも面倒ばかりだけれども。
 実家よりも少し大学に近い、バイトにも行きやすい立地の、安めのアパートを契約する。バイト代でどうにか家賃と生活費を捻出できる範囲でないといけない。節約術とか、シフトのない日に入れるための日雇い派遣サイトとかを調べながら暮らしに臨む。
 実際にやってみると本気できつい。とにかくたくさん働かないと生きていけないし、生きていけるといっても色々と我慢して大したものを食べられない状態で日々を乗り切っていくしかない。自由の代償というにはあまりにも息苦しい……。苦学生という言葉があったことを思い出す。
 けれども、である。けれども、私はそうして生きていくなかで孤独であり、個である。実家暮らしとの穂月とは分かち合えない経験をしているのだと思うと、どこか嬉しい。私は穂月とは違うのだし、穂月はもう私の生活に干渉できない。すでに高校生のときには対した関わりがなかったとはいえ、同じ家にいて同じ部屋で勉強や就寝をするとなると、どうしても触れ合うのだ、生活が。それがなくなった解放感は、安心して私という個を守っていられる充足感は、代えがたい。
 などと思っていたら風邪を引く。熱を出す。夕方、私はドラッグストアにふらふらと歩き出す。すっぴんのままマスクをして、部屋着で歩く。そういえばここ数か月は独り暮らしの準備資金作りに忙しかったのもあり、髪を染め直すこともできていなくて、黒い色が目立ってきている。さっさと元気になって、もしも何かあって余裕ができたら染め直したいな、と思う。
 ドラッグストアに着く。まだ入ったことのない店舗で、色々と探すのに時間がかかりそうだった。さっさと帰りたいので、店員に色々と場所を案内してもらう。男性店員で、同い年くらいに見える。彼は私と目が合うと、それから私を案内しながらちらちらと顔を見ているように思う。怖い。どういうつもりなのだろうか。もうこのドラッグストアに行かないほうが安全だろうか、と考えたところで店員が言う。
「もしかして吉村?」
「え」
 大学の知り合い? でも佐伯以外に気安い仲の男子なんていなかったし、その佐伯とはもう目も合わせない。私は名札に思い至って、目をやる。
「……鈴井?」
「あ、うん。覚えてたんだ、って名札あるか」
「いままで忘れてた。むしろよく覚えてたね」
「まあ色々あったから、吉村とは」それから鈴井は私に言う。「えっと。的子のほうだよね」
「……のほう、って言われたくないけど。うん。よくわかった」
「や、なんか……穂月のほうはそういう感じに育たない気がして」
 それは私が鈴井に暴言などを発したからだろうか? 髪がプリンのようになっている大学生になるほう、が私ということだろうか。それはそれでプリン髪への偏見であるように思える。
「あ、長話よくないよな。体調悪いんでしょ。ほかに何か買う?」
「……大丈夫」
 本当はタオルでも買うつもりだったけれど、会話をするのにも疲れてきたので切り上げる。会計を済ませて家に帰って、薬を飲んで冷却シートを貼って眠る。一時間ほどで目が覚めてしまう。外はもう暗い。晩御飯を食べて、水道水を飲む。
 寝つけずにぼうっと過ごす。鈴井のことを考える。小学生以来で、声も体格もすっかり違っていた。私も変わっていただろうか。というか、鼻を整形してあるはずなのにどうしてわかったのだろう、と思う。マスクをしていたから変化が目立たなかったのだろうか?
 目元を整形したほうがいいだろうか? その予算はしばらく捻出できそうにないが。
 その日を皮切りに私は鈴井とよく遭遇するようになる。鈴井は高校を卒業後、家庭の事情で進学をせずドラッグストアで働きながら独り暮らしをしているそうだ。案外近所に住んでいる。だからよく出会うのは鈴井がストーカーをしているというわけではないようで、元から行動範囲が被っていたものの、お互いのことを認識してはいなかっただけの話である――この辺りに、便利で安い店舗はそう多くない。
 家族は傍にいないし大学で絡みたい相手もいないしで、バイトに忙しいとはいえ退屈はしていた私は鈴井とよく話すようになる。
「あの頃は本当にごめん。双子だからって間違えて告白するなんて失礼だった」
 と正面から謝ってくれたこと、失礼という語彙を選んでくれたこともあって私は鈴井を友人として受け入れる。鈴井は内面的には小学生のときよりも落ち着きというか思慮のようなものが育っていて、普通にいいやつなのだけれど、
「うーん……それは俺にはわからない。ごめん」
「そのあたりは的子がちょっとずれてない?」
 みたいに正直に返してくることも多い。佐伯の件があったからそういう人のほうがちょっと安心するけれど、小学生のときはもっと曖昧で気弱な印象だったので驚く。訊いてみると、
「や、なんか気を遣って言いたいこと我慢するのよくないし、同調するフリってどうせバレるでしょ。とってつけた共感、急ごしらえの意見って粗があるっていうか、俺そんな上手く隠せるほど器用な人間じゃないから」
「ふぅん。何か気づくようなことがあったの?」
「それはまあ、色々」
「元カノとか?」
「や、恋人いない歴年齢。高校のときに三人でつるんでた友達のふたりが付き合ってさ、俺は正直そういうの生々しくて無理で……友達と友達が、キスとかしてると思うと気持ち悪くて。でもだから離れますってのも傷つけるんじゃないかって思って、全然おめでとうだぜって振る舞ってたんだけど……表情に出てたのかな。無理させてごめんみたいなこと言われて。あーもうこういうのやめようって」
 という、鈴井の人生にも色々とあるんだなあという話を聞いて納得する。人は経験で変わっていく。直ったり歪んだりしていって、その先に私や鈴井のような十九歳が形成されている。
「ちなみに俺は明日二十歳」
「へえ。おめでと。何かいる?」
「んー。明日って予定どう?」
「明日はバイトも派遣もシフト入れられなくて大学も午前で終わる」
「じゃあ飯とか食いに行かない?」
「金ないけど」
「じゃあ奢るよ」
「なんじゃそりゃ」意味不明だな、と思ったけれどそういえば鈴井に私以外の友達がいるという話も聞かないので合点がいく。「どんだけ寂しいんだよ」
 とりあえずタダ飯はありがたいので食べに行く。普通の安いファミレスだけれど、一食に五百円も使えない生活をやっていた私にとっては割とごちそうだった。鈴井が奮発してくれるというので千円ぶん頼ませてもらう。
 食後、夜道を一緒に歩いていると案の定告白される。でしょうね、と思えてしまうくらい正直バレバレだったけれど、
「私は穂月じゃないよ」
 と意地悪のつもりで言ってみたら、
「俺、間違いなく的子のことが好きだよ」
 と真剣に言ってくれたので承諾することにする。
 それが五月の夜。
 六月に誕生日がきて私も二十歳になる。また奢ってもらう。夏になって、大学生の長い夏休みは稼ぎ時なのでシフトも派遣もフルタイムで入れてずっと働く。そうしていると秋くらいに鈴井が寂しがったので、鈴井のしたいことに合わせてデートしてあげることにする。
 私は鈴井と初体験をする。安いホテルの休憩タイム。
「的子も初めてだったのちょっと意外」と鈴井が言う。「彼氏、いたんでしょ?」
「んー、そいつとはキスまで。なんかさ、付き合って一か月で家に行ったら、がばーって無理矢理やろうとしてきて。怖かったし拒否した」
 それから私は鈴井に元カレとの話をする。流れで日下部さんの話もすると、
「あー……なんかそういうのわかる。傷ついちゃいるけど、そこまでやってほしくないし、ぶっちゃけ迷惑みたいな」
 と共感する。
「そういうの、あったの?」
「……ほら、穂月さんと間違えて告ったとき。瀬尾がすごい怒って、的子のこと殴って」
「あ、そんなんあったね?」と言ってそこまで忘れていたわけでもないけれど。「引きずるねえ」
「だってあれから瀬尾と縁切ったし、瀬尾みたいなやつ嫌になったし」
「瀬尾みたいなやつ?」
「第三者の自分がこんなに怒っているなら、当人はもっと怒ってるはずだ! だから自分が怒りのままに色々することでスカッとするはずだ! みたいな」
「ああ、そうだね」それこそ日下部さんもそんなことを言っていた。
「自他の境界が曖昧っていうのかな。違うか? とにかく、自分のなかの怒りは自分の怒りでしかない、当人の怒りはちょっと違うかもしれないって立ち止まって、ちゃんとどうしてほしいか確認するべきなんだよ」
「そうだね」
「芸能人の不倫とかにキレて誹謗中傷してる一般人もそんな匂いするわ。被害者がどう思ってるかより、自分が加害者をどれだけ許せないかだけで動いてさ。それが被害者の味方、被害者のためになることだと思ってる」
 鈴井はそこまで言うと、持ち込んでいた麦茶を飲む。私も飲んで、もうちょっと落ち着いた頭で言う。
「私さ、誰かから、他の誰かと一緒くたにされるのが嫌なんだ」
「うん」
「穂月と一緒にされるのも嫌で、髪とか顔とか変えた。でも、日下部さんの気持ちと私の気持ちを一緒くたにされたり、女ってだけで一緒くたにされたり、どの学校に通ってるってことで一緒くたにされたり、結局なんだか色んな風に一括りされてきた」
「そうなんだな」
「ねえ、それっておかしいことだよね? どうしてみんなそうなの? 私は、みんなにバイアスなしに私という個人を見て、私が本当はどういう人格で何をしてほしい人なのか、しっかり向き合ってほしい。それ以外の、乱雑な判定で他人を扱うことが失礼だって、みんなにわかってほしい。そう願って生きてる」
 私がそう言うと、鈴井は一呼吸おいて、
「それはわがままだと思う」
 と言った。
「わがまま?」冷たく響いて動揺してしまう。
「うん。みんながみんな、自分を細かく理解してくれるなんて、そんなのは求めすぎだと思う。だって、みんなそんな体力ないから」
「体力?」
「体力。ステレオタイプというか、定型句みたいなものをわきに置いて人と関わるのって、頭を結構使う。コミュニケーションとしてのテンポを保ったままやるのも筋肉いるし。で、それをわざわざやるのって相手が唯一の個性みたいな感性を持っているって前提というか、ある種の期待みたいなものを抱きながら試みることだよな。ほかの人とは違うなって考えてるから、その人専用の扱いを探ろうとする。でも結局、人間はある程度は似たり寄ったりだったり、テンプレに意外と憧れていたりする。じっくり見極めてる人よりも、ウェブサイトに載ってるようなありきたりな及第点を出せる人のほうがいいって思われることすらある。あるいは、自分は違うって主張しているだけでそんなに違わないことに気づいていなかったり。そういう経験を重ねて、がっかりし続けてさ、もうそういう体力を使うのやめよう、省エネで行こうって、思ってしまう人は少なくないだろ」
「でもそれって怠慢じゃないの?」
「たとえばいままで痴漢とかに遭ってきた人が、信じていた異性にも性犯罪をやらかされたとして」鈴井は言う。「もう異性を信じたくないって言いだしたら、怠慢?」
「それは……そんなこと言えないけど」
「疲れるってそういうことだよ。信じることに疲れて諦めたり、手ごたえがなくてかったるくなったり。仕事とか学校とか、そういう浅い付き合いのときにいちいちやりたくなくなってもしょうがないと俺は思う」
 鈴井はもうひとくちお茶を飲んで、それから続ける。
「逆に言えば、深い付き合いだったらまだ人は信じようとするし、相手もそうしてくれると信じる。自分という個体、相手という個体を見つめ合う、見極め合える関係がほしくて、みんな親友とか恋人とかを求めるんじゃない?」
「……愛ってこと?」
「そう。愛があったら、人を信じられる。アーティストとかだって敬愛していたら、ほかの有象無象のようなズルはせずに伸し上がってると信じたくなるよな。アイドルとかが交際発覚して炎上するとかあるけど、あれだって愛しているから同じ性別の別アイドルとは違うって信じてる。そしてそういう愛を、全人類に求めるのは、俺は無理強いだと思う」
 鈴井の言葉を咀嚼している私の身体を、鈴井は抱きしめる。素肌と素肌が触れ合う。
「だから……なんつうか。俺が的子のことちゃんと見てるから。疲れずに諦めずにずっと、一生向き合うから。絶対に見間違えないし、ちゃんと考えて幸せにするから。それでいい、って思ってくれたら、俺としては、嬉しい」
 ああこれ愛してるって言われてるな、と思って真面目に照れてしまうので、私は割とちゃんと鈴井のこと好きなんだな、と自覚する。ここまで来ておいていまさらだけれど。
 私の世界との戦いはそんなふうに決着づけられる。

 考えてみれば私が唯一無二でありたいと思った発端は小学生時代の初恋の相手が間違えたことによるものなのだから、鈴井という恋人が唯一として承認してくれることでその寂しさが埋まってきているとしても、不自然ではないのかもしれなかった。実家への道中でそんなことを考える。
 私が私であるということ、吉村穂月やほかの人間ではなく吉村的子であるということを、世界中に認めさせたいくらいの気持ちでいたけれど――案外、本当に自分が愛している人にそう認めてもらえれば、それで十分かもしれない。
 結局のところ、私は惣田先生にきちんと愛されたかっただけだったのだろう。
 うん。もういいか、誰かと一括りにされても。しっかり嫌だけれど、耐えられる気がしてきた――私をちゃんと知っていてちゃんと愛している鈴井さえ私を間違えなければ、私という個体を見極めてくれていれば。
 呪いが解けた心地だ。
 まあ、鈴井が事故で死んでしまったり、なんだかんだで別れてしまったりしたらご破算だけれど、自分が思っていたより強固な呪いではなかったことがわかっただけでもよかった。
 その結論に至ったうえで今後はどうしようか、と考えながら実家に着く。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 母が出迎えてくれる。ちょうど夕食ができたそうだ。半年も経っていないのに懐かしの実家。父は残業で遅くなるらしく、先に食べていていいそうなので穂月を呼んでほしいと言われたので自室に行くと、穂月はヘッドホンをしながら課題か何かをしていた。そんなに大きな音で聴いていなかったのだろうか、すぐに私に気づくと、
「おかえり」と言った。
 変わらない。
「ただいま」
「ごはん?」
「うん」
 一緒に食器を運んで、食卓について手を合わせる。貧乏飯か外食ばかりだったから、手作りの実家の味に少し嬉しさを感じる。食事を摂りながら、私は母に考えていることを言う。
「独り暮らし、やめようと思ってる」
「もう、そうするの?」と母は驚く。穂月も私を不思議そうに見つめる。「別段、反対をしたいとは思わないけれど。それにしたって、一体全体、どうして?」
「想像力が足りなかった。大学に行きながらアルバイトをして生活費を稼ぐのって、やっぱりだいぶ厳しい。来年から三年生で、インターンとか就職活動もしないといけないとなると、ちょっと実家にお世話になったほうがいいと思って。スーツ代とか色々かかるでしょ」
「就活?」穂月が反応する。「的子、就活するの?」
「え、するけど」
 そりゃあするだろう、私だってモラトリアムでいる気はないし、いまのバイト先で正社員になる気もない。
「いいの? みんなと同じスーツ着て、同じ髪型で同じように笑わないといけないのに」
 と、一見妙なことを訊いてくる穂月の意図が、しかし私にはわかる。つまるところ、没個性に身を投じることになるがいいのか、と訊いているのだ。私が高校時代から、穂月どころじゃない誰かと間違えられることを厭うようになっていたことを、穂月は見抜いていたのだろうか。
「もういいんだ。独り暮らししてるとき彼氏できてさ、その人が解決してくれたっていうか」
「彼氏?」
「うん。覚えてる? 小学生のときの鈴井」
 穂月は驚いた顔で私を見つめる。まあ、あのときの一連の出来事の印象しかなければ、その表情もうなずける。
「あいつがさ、私の呪いを解いてくれた、っていうとメルヘンすぎるかもしれないけれども。でも、誰かと同じでもいいんだって、鈴井が私を唯一視してくれてるからいいんだって思って、ちょっと楽になって。だからもういいんだ」
「ふざけないでよ!」
 と。
 穂月が勢いよく椅子から立つ。その拍子に、机の上の穂月の味噌汁が倒れて穂月の明るい色の部屋着を汚すが、熱がる様子はなかった。穂月、と母が諫めるように言うが、聞く耳も持たずに、私を睨みつける。泣き出しそうな瞳で、口惜しそうな唇で。
「ふざけないで。いまさら。いまさら、なんで的子は、自分勝手に、全部、私から、奪うの」
「何? 落ち着いて穂月」
「落ち着いて? いままでさんざっぱら落ち着かせてきてまだ落ち着け? 犬じゃねえんだよ」穂月は椅子に座る私の肩を強く押す。椅子ごと私は倒れる。「的子が全然、落ち着かなかったから、私は落ち着くしかなかったんじゃん!」
「穂月!」母は立ちあがり怒鳴る。「どうして的子に危ないことをするの? そんなことをする子ではなかったでしょう!」
「だって私も的子もどっちもダメだったら、お母さんも悲しかったでしょ!」穂月は涙声で言う。「だから私、ちゃんとしてたのに! もっと的子みたいに遊びたかった、サボりたかった、自由な格好したかった! 的子がいまさら! いまさら!」
「的子はただただ、大人になっただけでしょう!」
「だから私もういいよね! 的子が大人になったなら、落ち着くなら、変な逆張りをやめるなら、私が落ち着きのない逆張りの子供になったっていいよね!」
「穂月は」私は床に座り込んだまま言う。「私みたいにしたかったの?」
「したかったに決まってるじゃん!」穂月は叫ぶと、決壊するように泣き出して、顔を抑えてうずくまる。「私、鈴井のこと、好きだった」
「え?」いまなんて言った?
「でも、鈴井が、私と的子を間違えたって知って、すごい、がっかりして、傷ついて、双子で似てるってすごく嫌だな、間違えられるの寂しいなって、思った」
 私が惣田先生に呪われたように。
 穂月も、また――鈴井に?
「でも私、的子が、私と違うほうを、選んでいくの見て、あれもいいなって、思った。でも、同じことしたら、同じになるし、的子だって嫌なんだろうから、我慢するしかなくて、なんで私だけ真面目に勉強してるんだろうとか思って、苛々して、違う高校に行って、私だってバイトとかしてみたかったし、もっとお洒落してみたかったけど、でも私はこういう頭いい高校に行かないとお母さん悲しむって思って、我慢して、大学では遊ぼうって思ってたら、なんかすごい課題多くて大変だし、的子は時間ありげに整形とかしてるし、的子みたいな鼻いいなって思うけどそんなに稼ぐ時間だってなくて、的子はさ、的子、私、的子さあ、的子、的子がいなかったら、私もっと自由だったんじゃないかなって、ごめんだけど、思うよ」
「穂月!」母は穂月の顔を無理矢理に上げさせると、思いっきりぶつ。「家族に対して、いなかったほうがよかっただなんて、口にしてはいけません!」
 穂月の瞳に灯ったものは、むろん反省ではなく後悔でもなく、どんろりと根を張りゆく失望で。
 私は、わかる、と思ってしまった。
 そして、そう思えてしまうことこそが、どうしようもないのだと、すぐに気が付いた。
 本当に、気持ちの悪い、運命だ。
「……家族って他人だね。もういい。もうやだ」
 穂月は母の手を振り払うと、自室に戻った。
 次の日の朝には、私より先に起きて、どこかに出かけていた。
 そしてどこにいるのかわからなくなった。
 けれど、ここにたしかに吉村穂月がいたことは、私と母を殴りつけた言葉たちが、ずっとずっと示していた。

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