少子高齢化について考えた

何日か空いての更新。
痛めた背中界隈はおかげさまで少し悪化した気がする。
こうやって治らない場所がどんどん増えていくのだろう。

今回は長野県のAさんのリクエストのお題「少子高齢化」について考えてみたいと思う。
今の私の身体にぴったりなお題だ。
きっと素晴らしい作品になる事だろう。

さても日本の最も大きな課題の一つ、それが「少子高齢化」だ。
簡単に説明すると、子が少なくなって齢が高い人が増える現象である。
つまりは読んで字の如しだ。
このくだりいるか?

子供がいないと何が困るか。
それは日本の未来を作り上げる人口がどんどん減っていってしまうという事だ。
さらに言えば介護や治療が必要な高齢者が増えて全人口における生産性が下がってしまう事だ。
このくだりもいらないな。

兎にも角にも、現状は二択である。
「子供を増やすか」vs「老人を減らすか」。
後者の場合は色々と問題しかないので現実的ではない。
となると、残されたのは子供を増やすしかない。
あれ?これもいらないな。

どうやったら子供が増えるだろうか。

物理的に言えば、手っ取り早いのは男女の契りを交わしまくるしかない。
子供を作るだけなら、比較的どうにかなりやすい。

その昔、友達の独身の女の子が「結婚はしたくない。でも子供は欲しい」と言っていたので快く「手伝うよ!」と言ったのだが怪訝そうな顔で見られた。
誰かの夢を叶えるために力を貸そうとしたのにその表情はないだろというぐらいのとてつもない顔だった。忘れられない。

いずれにせよ、基本的には契りを交わさない限り子供は作れない。産めない。
だとしたらやはり契りを推奨しなくてはならないのだが、今時の若者、特に男性は契り欲が下がっていると聞く。
以前なぜなのか考えてみたので、それをここに記してみる。

私が血気盛んな中学生の頃は、どんな手を使ってでも女性のおまんじゅうを見たかった。見たくても見られない中で、頭の中では想像のおまんじゅう像ばかりが膨らんでいった。
やがておまんじゅう丸見えのビデオが友人から回って来たりしたが、ダビングのダビングのダビングのダビングのようなもので映像はガビガビ。さらには輸入まんじゅうが主だ。
そんな少年が初めて生おまんじゅうに対面するのは高校に入ってから。
中学生の間に恋焦がれたおまんじゅうを見た時には感動すら覚えたし、あの時の気持ちは今でも忘れない。
なので48歳の現在でもおまんじゅうには憧れどころか畏敬の念すら抱いている。
そこから派生するように、当然契り欲も高かった。
周りの友人もチャンスあらば契りたい、とその機会を虎視眈々と狙っていた。

それが、今の時代はどうだろうか。

手元にある「スマートフォン」という名の鉄の板を指で触れるだけで、いくらでもおまんじゅうとご対面出来る。
つまり、誰もがポケットにスマホという名のおまんじゅうを持ち歩ける時代となったのだ。
だとしたならば、おまんじゅうは当たり前のようにそこにあり、いつでもアクセス出来る。
何なら動画で、さらには超高画質の4K撮影だったりでまるでもうそこにあるようなものだ。
おまんじゅうは、思った以上に私たちの何気ない日常の中に溶け込んでいる。

少し前の話になるが、星野源さんが新垣結衣さんと結婚なさった。

世間的には男女ともに羨むような憧れのカップルと言えるだろう。
だがしかし、毎日同じ屋根の下に暮らしていればそれが日常となって行くのが人の性。
ガッキーが意を決して
「ゲンちゃん(と呼んでるかは知らないけど)、今夜あたり…」
と勇気を出して声をかけても
「ごめん、明日レコーディングで早いんだ」
と断る事もあるだろう。

何をやっているんだ星野!
ふざけんな星野!
それでも男か星野!
*一応音楽業界の後輩に当たるから呼び捨てするよ

書くのもアレだから割愛するが、逆もまた然りだ。

このように、世の中は手に入るものは日常に成り下がり、憧れていた頃に比べてその価値は相対的に下がると決まっている。
だとしたら
「ポケッタブルおまんじゅうの普及=若者のおまんじゅう離れ=契り欲の低下」
の式は自ずと導き出される。
契り欲が低ければ異性への関心も下がり
「結婚するより一人で自由に二次元まんじゅうを堪能していた方がいいよね」
と考えてしまうのも納得が行く。

少子化についてさらに問題なのは、子供を産んだ後に育てるのに非常にお金がかかる事だ。
産んでも育てる自信がなければ、産まないのは当然だろう。

しかし、戦後の苦しく貧しい時期にまともに子育て出来ていたのか、と考えてみるとそうでもない事は容易に想像がつく。
一家の労働力と収入源として子供を利用したり、と考えたら今でいうまともな教育を受けさせてもらえるわけもなく、何なら山奥の寒村では口減らしと称して子供を間引いたりもしていたと聞く。
それでもその時代を生き抜いた子供たちはやがて大人になり、日本の発展に大いなる寄与をした。
現代では「大学ぐらい出ておかないと」という謎の価値観が蔓延っている。
「その価値観に沿わせてあげられそうもない」というのが「まともに育てられそうにない」というならば、それはちょっと暴論ではないかと思う。

多様性が叫ばれる現代。
「それぞれが自由に生きられる社会を」という価値観を大学で学んだりしている。
そもそも、そんな当たり前の事は学校で学ばなければわからないのだろうか?
大学院卒の学者さんも、高卒の契約社員も、中学すらまともに出ていないホームレスも、みんなそれぞれがそれぞれで生きているではないか。
誰でも伸び伸びと生きやすく、困っているなら助け合い、緩やかに繋がっている中で未来に向かって社会を今より少しはマシにして行く。
他人を羨んだり見下していたりするより、自分の自己実現を大いに謳歌できる世の中。
そんな世の中になるには、物質社会からのだっky

あれおかしいな。
普通のこと書いてる。

長くなりそうなので手短に書くと「緩やかにお互いに過干渉しないで他人より自分を見つめて生きていける世の中にしよう」って話だ。

いいじゃん他の人なんて。
自分が良ければ。

だから私は誰に何と言われようとも、今日もおまんじゅうに畏敬の念を抱き、契れるチャンスを虎視眈々と狙い続ける。
この松茸が朽ち果てるまで。

Aちゃんこんなんなりました。
なんかごめんね。

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