大事な価値観はトラウマの反動
わたしが大切に、本当だと信じていることが2つあります。
ひとつめは
個性的であることは誇りであるということ。
ふたつめは
一般的な常識や価値基準に懐疑的でいるべきだということ。
(自分が、です。他の人に強要する気持ちはない。)
この信条、価値観がどこからやってきたのか考えてみると、どちらも昔のトラウマだと思うのがしっくりくる。
トラウマというとおおげさかもしれないけど、いい思い出じゃなくて嫌な思い出に根ざしていることは確かです。
「個性的であることは誇りである」
子供を育てることがあれば、もしあなたに人と違うことがあったらそれはすごいことなんだと、誰かに見せびらかさなくていいけど大事に自分で知っててほしいんだということを伝えて伝えて、もうわかったようるさいなと言われるぐらいに伝える。
小学校は、わたし以外がみんな同じ幼稚園でおんなじ雰囲気を醸し出していて、わたしは浮いていました。
特に小学校一年生は、方言を話さないことと、ポケモンを1匹も知らないことが主な引き金で、仲間はずれみたいな状態になった。
休み時間は、1人で教室で本を読んでいて、これは本当にそうしたいからそうしていたんだけど、担任の先生が母親に「心配なこと」として伝えた。
これは心配されるようなことでダメなことなんだな、みんなといっしょに外で遊ばないといけないのやな、と思うようになった。
そこから、普通っぽく振る舞うことを頑張っていたと思います。
だけど、よく考えたら、誰かと違う部分にこそ価値がある。
代替不可能であるということは、みんなと同じではないということは、わたしにとって本当に大切です。
この経験の反動で、強くそう思うようになったと思う。
「一般的な常識や価値基準に懐疑的でいる」
こちらは生きづらいので、子供には積極的に伝えない。
これは、中学高校で強く形成されたと思う。
キリスト教の学校だったけど、聖書のほぼ全部に納得いかなかった。
校則も厳しかったけど、この厳しさは思考の放棄であって、怠慢だと思った。
たとえば「スカートを短くしてはいけない」の校則に正しさを見出せなくて、守らなかった。ミニじゃなくてロングでもなくて、自分が1番綺麗だと思う長さにしていた。
注意されてもやめないから、注意回数が学年で1番だと言って、指導室に呼び出されて怒られるとき、「スカート短いことの何がだめなんですか?」の答えが「男の人から危険な目に遭わされる可能性が高くなるから」と「伝統だから」だった。
そんなの、危険な目に遭わせてくる人が悪いに決まってる。先生は今、「好きな格好してると危険な目に遭うかもしれないときは、好きな格好するな」って教えてるの?犯罪者への対処法は自分の欲求を諦めることだって、本気で?
伝統だからは終わってる。
なぜ伝統を守るのか、この学校が守るべき伝統の本質ってスカートの長さじゃないはずだ。1人の生徒が好きにスカートを履くことで損なわれてしまうような伝統に価値があるの?
世の中のルールの多くは、自由を守るためにあるとみんな知っている。髪の色や制服の着方を縛る規則は、何を守ってるの?
そういう議論を先生としたかった。
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