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ひとの写真をみるたびに、世界の眺め方の違いに気付かされる

Instagramを眺めていて、「ああ、自分と比べて、この人たちは風景の写真を撮ったり、他人の笑顔を撮ったりしている。それに比べて自分の投稿は、いつも自分の顔ばかりだ、それも一人の」と感じた。もしかすると、人よりも常に自分のことばかりを考えているのかもしれない。

ラッセルが著書『幸福論』*1のなかで「幸福になるためには自分の内へ内へと意識を向けるのではなく、外側に目を向けよ」といっていたことを思い出す。彼女に、「自分と他人に境界線を引き過ぎ」と指摘をされたこともある。

それはともかくとして、人の撮った写真とか動画を見ていると、世界に対して持っている視点の違いが表現の中に現れていて、とても面白いと感じる。

例えば、海外から来た方が日本を観光するときの動画(vlog)を視聴すると、目の付け所の違いに気付かされる。日本にずっと住んできた自分が動画を見ても、慣れ親しんだはずの光景がなぜだか「異国の地」であるかのように、エキゾチックに感じられる。

最近、國文功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読んだけど、そこでは「環世界」*2という概念が出てきた。トカゲの眺める世界や、イヌの眺める世界は、生物種がそれぞれ持つ知覚の体系によって、全く異なる。それと同じ「世界の眺め方の違い」が人間どうしでも発生しているというわけだ(同時に、人間の自由なところは、異なる「環世界」を容易に行き来できることではないか、という考察もされている)。

お花の種類について詳しい人は、普通の人が素通りしてしまうような道端の花に対しても目がいく。お花に関わる世界の解像度が上がり、概念が細かく分節化される。雪国の人が「雪」を何種類にも区別する言葉を持つように。

何に目をむけ、何に目を向けないのか。個人の経験世界は、個人の関心*3に規定されている、という哲学では馴染みのある話だ。

僕は、異国の地に行ったときに、日本で「良いこと」として育んできたはずの要素が、全部「ないもの」のように扱われてしまう悲しさを覚えたりもした(詳しい話はまたいつかしたい)。逆に僕自身も、誰かが大切にしているものを、「ないもの」として無自覚に扱ってしまっていることも事実であろう。友人はこれを、「上から見ていくら綺麗な絵を描いても、物事を横からしか見ていない人にとっては何も描いていないのと同じ」と表現していた。

単純な例。日本語は「姉」と「妹」を区別するけれど、英語だと単に「sister」だ。ここに、年齢という座標軸に対して人々がどれほど意識的だったのかが表れる。あるいは、望月新一さんがブログで言及したように、日本語で「お箸」と表現されるものも、英語では「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」となってしまう。

または、子供と大人で経験世界がまるで異なるという話。「小学校のときに体験した鉄棒、昔はすごく高く感じたのにな。もうこんなに小さいのか」という感覚*4は、自分と世界の関わり方が、身体の成長に伴って明確に変化したことを実感させる。子供はたった一つの砂山から、砂のお城を作る楽しみを引き出すことができるけれど、対照的に僕はいつも退屈感に悩まされている。子供を見習わなくてはいけない(ところで親は、子供の存在を通じて、子供の「環世界」をもう一度訪れていると言えるだろうか)。それ以外にも、右利きの世界と左利きの世界とか、身体性と世界の相互作用を考える上で興味深い事例はたくさんある。

神経科学では、「サリエンシー」(顕著性)という概念が個人的に気になっているキーワードの一つだ。現象学とも共同して研究が進められている。前に引用した、國分さんの他の著書*5でも出現する重要な概念だ。サリエンシーが高い知覚対象は、意識の注意を惹きつけやすいという。脳を「混沌とした世界の情報(神経系に対する感覚入力)からパターンを認識し、次の状態を予測するためのマシン」として捉える壮大な理論*6があるが、予測しづらい入力が出現するとサリエンシーが高くなるのでは?と考える動きもある(室内を飛び回るハエの動きの予測不可能なこと!)。

予測しづらい、というのは大まかに考えると「慣れていない」ということだ。冒頭付近で述べた、日本人と日本に初めて来た外国人の視点の違いも、サリエンシーから説明できるかもしれない。日本の町にすっかり慣れ親しんだ我々は、「信号がいつ変わるか」「バスがいつ来るか」などという、町の機能的な面にしか意識が向かなくなりがちだけれど、日本に初めて来た人にとっては「日本人の歩き方」「信号機のデザイン」など、ありとあらゆるものがサリエンシーの高い対象として映るのだろう。堅く表現するなら、「異質性の高い」知覚対象に意識が向くということだ。

それこそ、人から聞いた話でしかないが、ドラッグを使ったときの世界って、サリエンシーに関わる神経のツマミをダイレクトに回してしまっているのかな。だから日常から遠く離れた意識経験に飛んでいってしまうのだろうか。「コカインが神経細胞同士の接合部であるシナプスにどういう影響を与えるのか」という論文が最近あった。

で、だいぶ話が逸れてしまったけれども、他人の「環世界」が写真とか、文章からさりげなく現れるときに、僕は「世界の眺め方」が人によって全く異なることを実感して、面白いと感じる。表現には、その人の大事にしているところが出ると思う。こだわっていること、あるいは執着していること。写真は日常を視覚的に切り取る行為、文章は言葉で日常を再構成しようとする行為だとすれば、そういう行為の過程で、表現する人の「環世界」が作品に表出する。そこに現れる、他人の「環世界」をもっと敏感に感じ取れる体質になりたいな、と思う。

補足

*1. バートランド・ラッセル (1991)幸福論(ラッセル)岩波文庫

*2. 「環世界」そのものは生物学者による概念であり、生物種それぞれが知覚する世界を表すための言葉です。
國分 功一郎(2015)暇と退屈の倫理学 太田出版

*3. 個人の関心というより、「価値基準」といった言葉で語られることもあると思います。環世界は、ニーチェが『権力への意志』で言及する「保存・生長の諸条件」にも通じるものを感じます。あらゆる命あるものは、何が不可欠で何が利益で何が不要なのかを見極める基準(=知覚系)を、生存に最適な形で発達させてきた、というものです。

*4. 以下の著書p.80-81にて、メルロ・ポンティの「身体の作動志向性」を説明するための具体例として使用されています。
榊原哲也(2018)医療ケアを問い直す 筑摩書房

*5. 國分 功一郎、熊谷晋一郎(2020)<責任>の生成ー中動態と当事者研究 新曜社

*6. 自由エネルギー原理と呼ばれ、神経科学者のカール・フリストン氏により提唱されています。

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