つながり

皆さんこんにちは。Myanmar's VoicesのA.Sです。同団体の活動終了に伴い、各メンバーがnoteでそれぞれの思いを投稿しています。3回目のこちらの投稿では私が担当を務めます。よろしくお願いいたします。



「TV放送の回線と電話サービスが全国的に遮断された」

「すぐに、インターネット接続も遮断され、連絡は途絶えることになるだろう」

2021年の2月1日、ミャンマーの大勢の人々がSNS上で助けを求めていた。同日、国軍は非常事態宣言を出し、国家の全権掌握を表明。事実上の最高指導者であったアウン・サン・スー・チー氏らが拘束された。

仮にも国のトップを名乗る者が、選挙の不正をでっち上げ、国民の大多数が選挙で選んだリーダーを拘束し、通信手段を大幅に規制して情報統制を行っている。これが現実であるとは、にわかには信じがたかった。

そうした状況下でも、市民たちは抗議活動を続けていた。デモ隊が身の危険を覚悟でシュプレヒコールを上げ続ける姿には胸を打たれた。ほどなくして、友人が学生団体を立ち上げようとしていることを知り、SNSでの現地の情勢及び文化の発信活動への参画を決めた。



ところで、Myanmar's Voicesのメンバーには、現地に知人がいる者や渡航経験のある者が複数人いたが、私はそのどちらでもなかった。同団体への加入を決めたのも、単に理不尽なことが嫌いで、眼前の問題を対岸の火事で終わらせたくなかったからだ。

ミャンマーという国そのものへの興味が活動に参加した当初から大きかったわけではない。当時の私は現地についての知識も乏しく、活動の動機も他のメンバーとは全く違っていた。

私生活が忙しくなると、活動への参加頻度が減っていくと同時に、現地について知る機会も減った。活動に参加していない時期には、ミャンマーに一体どれだけの関心を寄せられていたのだろうか。

実際のところ、自分の中でのミャンマーの存在感が常に濃くあったわけではないように思う。"第三者"であることを言い訳にしたくないと思いながらも、結局、当事者や現地に直接的な思い入れがある方々と同程度の関心を向けることは、難しかった。

正直、自分にミャンマーを語る資格があるのかは分からない。学生団体の活動の締めくくりであることに託けて、有識者気取りをする気もない。ただ、私にも、ミャンマーへの思いは少なからずある。


先日、友人と高田馬場に行く機会があった。高田馬場は「リトルヤンゴン」と呼ばれ、国内随一のミャンマー出身者が集う地だ。駅から徒歩1-2分のところにミャンマーにゆかりのある店が立ち並ぶ通りがある。私と友人とは、その通り沿いにある料理店に入った。

メニューを開くと、そこにはモヒンガーやシャンカウスエ(シャンヌードル)、ラペソー(お茶葉)のサラダ等の馴染みのある料理が多くあった。気が付くと、私は、知っている料理を友人に嬉々として説明していた。

3年前、ミャンマーが東南アジアの一国であることぐらいしか知らなかった人間が、開口一番にモヒンガーに使われる魚について話していた。当時との違いは明白だ。

シャンカウスエ@高田馬場の某ミャンマー料理店

シャン州(ミャンマー東部)発祥の麺料理。
味は担々麺と少し似ていた。美味しい。



Myanmar's Voicesはクーデター勃発を機に結成された。ひょっとすると、同団体はおろか、2月1日のクーデターがなければ、私が現地に関心を持つことは、なかったのかもしれない。

きっかけがクーデター勃発というネガティブな出来事であったことは非常に不本意だが、現地の魅力を以前よりも知り、愛着を持てるようになったこと自体は嬉しかった。100点満点のコミットの仕方ではないとしても、ミャンマーに縁もゆかりもない人間なりに、現地との"つながり"を作ることができたと感じている。


4月から、メンバーのそれぞれが新生活を迎える。まもなくMyanmar's Voicesとしての活動は終わるが、活動開始から3年経った現在も、終戦の目処は立っていない。活動を終えるまでに平穏なミャンマーの姿を見たいという願いを叶えることはできなかった。

私は、お金も権力もない一介の大学生だ。現地での問題解決において、私1人では無力であることは否めない。そもそも、誰かが声を上げることで変われるほど優しい世界であれば、こんな凄惨なことは起こっていないだろう。残念ながら、声を上げれば現状が変わるという保証は、どこにもない。

他方、声を上げても現状が変わらないという保証もまたない。

雨乞いは、いつ雨が降るかは分からなくとも、雨が降るまで何度も続けていれば、成功率が100%になるという話がある。声をずっと上げていれば、いつの日か、人々に恵みの雨が降ってくるかもしれない。

Myanmar's Voicesのメンバーという肩書きを失っても、個人の範囲でできることはある。新聞や現地メディアからの情報収集、募金などを通した支援、SNS上での現地の情報共有など、いずれも、そう特別なことではない。

誰か1人だけの行動では取るに足らないものであったとしても、行動する人が増えていけば、やがて社会に与える影響も大きくなっていくはずだ。

加えて、今ミャンマーで起こっている事柄は、世界中の理不尽の一例に過ぎないということも肝に銘じておきたい。ウクライナやパレスチナでも、あまり報道されることのない他の国でも、日常的に暴政に苦しめられている人々が大勢いる。私は、声を上げる自由が守られた国に生まれた身だ。できる限り現状を注視し、声を上げ続けていきたい。

尤も、私たちには私たちの生活がある。赤の他人のために生活を犠牲にできないと思う気持ちも不自然ではない。まして、世の中にある無数の問題全てと向き合うことは事実上不可能であり、取捨選択をしなければならないのも事実だ。

それでも、向き合える問題と向き合おうとすることは、決して無意味ではない。微々たるものであっても、無関心よりは関心を持っていた方がずっと良い。

きっかけは、現地の友人でも、ニュースの報道でも、なんとなくでも、どんなものだって構わない。人々が問題と自分との間に"つながり"を見出し、少しでも関心を持つことが、問題解決の第一歩になると私は信じている。

どうか、世界中の不合理な出来事が、少しでも減っていきますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?