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パラ開会式で見た「わかりやすい=面白い」の図

パラリンピック開会式がとても好評であった旨の記事をネットニュースで読んだ。「テーマが一貫している」「わかりやすい」という文言を多数目にした。

わたしも開会式をリアルタイムで観た。そのとおりで、非常にわかりやすいと感じた。主人公の女の子がいて、翼がひとつしかない乗り物に乗っていて、なんだか浮かない表情。飛びたいけれど飛べない、飛び方がわからない様子が伺える。
続けて、飛行機の部品を身につけているキャラクターが次々に現れる。キャラクターたちの様々なショーを観て、女の子は表情がどんどん明るくなり、やがて空を飛ぶ。
それはアニメーションのようだった。台詞はなく、音楽と、ヴィジュアルだけで表現していく。もっと尺が取れて途中で主人公の女の子の苦悩や仲間割れなどが描かれたら、ピクサーのお話にもありそう。

華やかなプロジェクションマッピングと、賑やかな演出。障害を障害として表現していたところに感動した。例えハードルが高くても、可能性は無限なんだ。非常にポジティブになれるショーだった。
きっと国際的な催し物には、こういった見せた方が適しているのだと感じた。

同時に、気になることがあった。称賛の声に、前述した「わかりやすい」という言葉が、あまりにも多かったことだ。
読みながら首をかしげた。わかりやすいことは好評価の理由になるのだろうか。

好みの問題なので不快に思う方がいたら恐縮だが、ストーリーにおいてはなんとなく物足りなさを覚えた。それは「何も考えなくても理解できる」ということだと思う。これは何だろう?何をしているのだろう?といった思考を巡らせる作業が発生しなかったことによると思う。
加えて解説。例えば主人公の翼がまだひとつであることに対して、登場後間髪入れずに「いつか空を飛ぶことを夢見ています」と説明が入る。この子はどんな子なのだろう、なぜ翼がひとつなのだろう、と考える前に解答を言われてしまうのだ。途端にそれは鑑賞ではなく、ただひたすら目で追うだけの作業に変わってしまう。
わたしは考えながら観ることが好きなので、解説いらないなぁと思うことが度々あった。オリンピック開会式もだけど、こっちで想像するから言わなくていいよって思うことが多く、解説の音声をテレビでオンオフできたらいいのになと思ってしまった。

それでもTwitterには「解説がないと分からない」「解説ないとつまらない」というツイートをたくさん見た。わからない=つまらないに直結することに衝撃を受けたし、なぜ序盤で全てを理解しようと思うのだろうと不思議に感じる。演劇もだけれど、こういうものってじわじわ理解していくものだと思っていた。それがとても楽しいのにな。
オリンピックの開会式がつまらない、退屈と言われた理由の何分の1かは、ここにあるのかもしれない。

「わかりやすい=面白い」「わからない=つまらない」の図には、危機感を覚える。
ふと少し前に、エヴァはつまらないけれど鬼滅は好き、という声を聞いたことを思い出した。同時期に映画が公開されていたから比較されたのだと思うが、ミスリードしないように丁寧に作られた鬼滅の刃がブームとなっている今の時代には、以前のように新世紀エヴァンゲリオンが社会現象になることは、ないのかもしれない。
わからないからわかるまで考えて、自分なりの答えが出て、面白いと感じる。という時代は終わってしまったのだろうか。わからないものはつまらないと切り捨てられてしまうのだろうか。そのうち演劇も、コントのように冒頭で不自然に状況を説明するところから始めないといけなくなるのだろうか。

パラリンピック開会式を称賛する声の中には、オリンピック開会式をただ叩きたかっただけの人もいたかもしれない。
けれどこの「わかりやすくて面白い」の声があまりにも多かったことを、不安に感じてしまった。

演劇なりショーなり絵画なり、不思議で、謎に包まれていて、なんだこれ、よくわからないぞといったものに対して、わからないことを読み解く面白さを大切にした作品。
時代遅れかもしれないけれど、大切にしたいと思った。

いつも本当にありがとう。これからもどうか見てください(*´◒`*)ノ