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贖罪

自己紹介の文言を変えました。

薬害から世の中の仕組みをあれこれと考えるようになりました。自分の頭の中を整理するために書いています。プチ炎上したことがありますので、いただいたコメントには返信しておりません。あしからずご了承ください。

過去に、ブログと旧FBでプチ炎上をやってしまいました。プチとは言え、とても後味が悪いものです。今後、コメントの返信はいたしません。すみませんが、ご了承ください。


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(電通の戦略十訓 https://dailyrootsfinder.com/dentu-strategy-10/)




・・・ただの始まりの合図に過ぎません。これからも、今までは考えられない形で、人類規模での災禍がやってくるでしょう。
そしてその度に、隷属的な人々はより無意識になり、コントロールされ、何(れ)はコントロールされていることにも気づかなくなります。
そして、反抗的な人々は、反抗するだけなので力を持たず、反抗する材料を与えられることで、その反抗心を満たすことになります。
結果的に、数多くの、もちろん仲の良かった友人や同僚、仲間、その他の人々も、ロボットとしての人生を送ることになるでしょう。そして、これはこの世界だけのことでは終わりません。
支配する側もされる側も、同じように無意識の闇の深みに陥り、最後は人間とも呼べないような形のものになり得るでしょう。
自分では完全に何もできなくなる形まで、飼育され、与えられるか、飼育している気分にさせられるか、そのどちらかなら、選択することができます。
そして、限られた意識のあるひと、創造性につながり直すことを選択した、勇気ある人々が、本当の風の時代の自由の空気を吸い込んで、大地とともに歌い笑い踊ることができる時代がやってきました。

「世の中の9割が間違っている「風の時代」の認識〜風の時代の本当の生き方とは〜」より (太字には私がしました)


占星術のことをよく知らないから、「地の時代」「風の時代」と言われても、本当のところはよく分からない。ただ、言われてみたら、そうだなと思うだけ。確かに、今も「地の時代」をひきずっている高齢者は、「地の時代」の最後の世代のように感じる。


だからと言って、「風の時代」が素晴しい時代の到来だとは思わない。物中心から仮想現実に移ることは、生き物としての人間からかけ離れた人工的な”人間”(究極には今の定義とは違う意味の人間)になるということだ。その一方で、スピリチュアル系の人が語るような、精神性の高い次元や霊的なものに近づくという方向もあるように思う。占星術のことを知らない私が言うのもナンだけれど、双子座というだけあって、似て非なる二つの方向にこれから向っていくのではないかと思う。

一握りの人間、グローバルエリートたちに手繰られる方向
神や天や真理というような、超越したものに手繰られる方向と。

ちなみに、何にも手繰られないで生きることは人間には不可能。「私らしく!」というのは、他者からの評価の集積だから。


「グローバルエリートに手繰られる方向」に向えば、生き物ではなくロボットになる。

「超越したものに手繰られる方向」というのは、生き物としての人間であり続けるということだ。



私は、「生き物としての人間」を全うしたい。でも、これはかなりの少数派のようだ。本当は愛する人たちを、「生き物としての人間」のほうに引っ張り込みたいのだけれど、その可能性はかなり低いということが、今回の茶番で分かった。

それでも、私のことを頼りにしている人、私のことが好きな人は、わずかながらの可能性があるのではないかと思う。少なくとも、私が死んでも打たないと言ったから、じゃあ私も打たないと言った人が3人いる。

彼らにも、言葉は通じない。態度や生き方で伝えるしかない。言葉はそれを補うものでしかない。


私だけが助かりたいとは思わない。私の身を捧げて、愛する人たちが助かるならばそうしたいところ。でも、私にはその資格さえなさそうだ。


「聖書」に限らず、林千勝先生もおっしゃっていて、びっくりしたのだけれど、やはり犠牲がなければ、世の中は変わらない。アメリカで3割の人が目覚めているそうだけれど、その影には多くの人が死んでいる。(「試練」より)

イエスが十字架に架かった意味が、ソクラテスが毒杯をあげた意味が、ガンディーが多くの犠牲者を出しながらも非暴力、不服従を貫いた意味がまた少し分かった。私の努力じゃどうにもならない。犠牲があってこそ、何かが変わる”可能性”がある。

ちっぽけな庶民の私には、「無駄死」にはあっても、「犠牲」になる機会は与えられないのかもしれない。


じゃあ、

「愛する人たちとともにロボットになる道を取るのか?」


私は殺されてもロボットにはならない。


これが、答えだ。苦しみ葛藤しつづけた結果の結論だ。昨日も今日も明日も心が痛いのだけれど。


今、愛する人たちと別れている最中だと思う。この歳になって「ひとり立ち」というのもおかしな話だけれど、私はひとりだ。そこがスタートだ。

愛する人たちとの別れはつらいけれど、全く寂しくない。寂しくはないけれど、悲しい。愛する人たちが、人間とも呼べないような形のものになるのを見届けなければいけないから。

それが私に課せられた贖罪かもしれない。

たくさんの罪を犯してきたからね。「しょうがなかった」って言えることばかりかもしれないし、もっと大きな罪を犯している人はたくさんいるけれど。私の周囲で起きたことについて、後悔することばかり。もし、来世があるのあるならば、もう少しまともな判断ができるようになっていたいものだ。


(タイトル画像:ダビッド《ソクラテスの死》1787 より)




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