偶像崇拝
モスク(Mosque)は、イスラム教の礼拝堂を指すが、アラビア語ではマスジド(مَسْجِد)で 「ひざまずく場所」という意味を持つ。何に向って礼拝するのかと言えば、ミフラーブと呼ばれるくぼみだ。
ミフラーブは美しく飾られるが、神がそこにおられるとか、降りてくるいうものではない。メッカ(マッカ)にあるカーバー神殿の方向を示している。
そして、このカーバー神殿の中は空洞だそうだ。
ムハンマドは、630年にメッカの町を征服することに成功する。そして、カーバ神殿にあった様々な偶像360体を破壊して、ここをイスラームの聖殿とした。
よく知られているように、イスラームは偶像崇拝を禁止する。
瀆神(とくしん)は、「神聖をけがすこと(三省堂 大辞林)」という意味だそうだ。「啓典の民」がユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム教徒だから、「啓典宗教」というのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームのことだろう。
コーラン(クルアーン)にはこう書いてあるそうだ。ちなみに、ムハンマドはアラビア語で神からの啓示を受けたから、日本語訳は注釈ということになるが。
”文字を読めなかった庶民を教化するには、像や絵を使ったほうが分かりやすい”
というのが、像や絵がつくられた背景にはあると思う。どうしてそれがダメなのかが、今ひとつ分からなかった。
実は、『聖書』でも偶像崇拝を禁止している。私も聞いていたけれど、人々に分かりやすく伝えるということのほうが、「偶像崇拝禁止」より優先させるのは、どこも同じだろうと思っていたから気にしていなかった。仏教も、仏陀があまりにも尊い方だから、足跡だけを描いたり、象徴となるものを代わりに描いていた時期もあった。イスラームは偶像崇拝はもちろん翻訳もダメだというのは、なんて厳格なんだろうと思っていた。
今頃そこに気づくのかと言うところだけれど、たとえばイタリアルネサンスなど、キリスト教美術のほとんどすべてがカトリックだ。正教会はイコンに向って祈るが、画家の個性は否定されるようだ。ローマ帝国下にあったキリスト教は偶像崇拝するということなのか?
その一方で、プロテスタントは総じて質素。プロテスタントにも色々派があってよくは知らないけれど、少なくとも「偶像崇拝禁止」を守っている人たちがいるということだ。
それはさておき、今回の茶番は、コンピューターで作成されたウィルスの画像がメディアでガンガン流され、人々を恐怖に陥れた。偶像”崇拝”ではないが、偶像を信じるという点で同じだ。
ウィルスの画像だけではなく救世するにはあの液体しかないと、これまたガンガンと宣伝し、人々は簡単にそれに乗った。メディアで流される偶像を信じ、誘導された結果だ。人々はお金儲けの対象として消費され、奴隷化されていく。
神ではない”人間”が造ったものを信じることは危険だ。
たとえ、動機が人々に教えを広めるためというものであっても。翻訳にしろ、像を造るにしろ、必ず人間を通すことになる。人間を通すということは、神の前にフィルターを置くということでもある。
そう思うと、仏像はどうよ?と思い始めていた。キリスト教美術もそうだ。
仏像オタクとしては、行きたいお寺はたくさんあるが、なかなか行けなかった。引っ越しするとう~んと遠くなるから、今のうち行っておこうと思って、いくつかのお寺に行ってみた。
少し前ならば、国宝や重要文化財を前にすれば舞い上がっていたのに、「ふ~うん」という感じ。感動が薄すぎるだろう・・・
商売が繁盛しますように、良縁がきますように、出世しますように・・・、昔からの人々の現世利益を一心に集めたお寺であり、人々の願いを一心に受けた像だ。人々が現世利益を求めるのは、それはそれで愛おしいとも思うのだけれど、そこに向って私も手を合わせるのは違うと思った。
国宝や重要文化財を前にして、「仏像は偶像でしかない」という気持ちが壁のように立ち塞がったからだ。
今までも、願いが叶うと思って仏像を見ることは無かったつもりだったけれども、ここまで冷ややかに見てしまうことに我ながらびっくりした。私にもささやかな信仰心があって、そのスクリーンを通して見ていたことに気づいた瞬間だった。
人生で大きな危機があるたびに、ものの見方が変わる。今回もそう。前回の危機は世の中のウソに気づくきっかけになった。今回の危機は、人々がだまされる仕組みを理解するきっかけになった。
私の最初の危機は、医療がおかしいということだった。今回の茶番は大規模に行われたから、インボー論と言われながらもおかしいと言う人は多い。私の最初の危機のときは誰もいなかった。そこから何年もかけて、調べたり考えた。
この動画の人もおっしゃっているけれど、これはかなり辛い経験だった。
そこがスタートだった。
思えば、遠くまで来てしまったものだ。
偶像崇拝は悪魔の温床だと理解できたのだから。
ちなみに「悪魔」とは
私はイスラームの信者でもないし、キリスト教徒でもない。でも、人間を不幸に陥れるものは何かということは、共通している。
「気づき」があって、良かったのか悪かったのかはよく分からないけれど、それを決めるのは私でもないし、他人が判断することでもない。でも、たぶん、「気づき」があるから辛いこともあると思うけれど、死ぬときには、「よかった」って思うだろう。
やっぱりね、だまされるのはイヤだし、知らないで他人に押しつけるのはもっとイヤだから。
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