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大和魂と大人の事情

日本語の家族の呼び方、つまり、お兄ちゃん、お姉ちゃん、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん・・・は、最も年少の人物から見たものです。ふと、それを思い出しました。それだけ、次世代を担う子ども、その中でも最も年少の子家族の中心にあることが、日本語の中に刻まれています。言語は民族の文化そのものですから、日本には子どもや次世代を大切にする文化があったのでしょう。明治時代に日本に来た西洋人が、「子ども天国」だと言ったという話もあります。

それが今はどうなんでしょう?子どもたちは、”大人の事情”でマスクを強いられたり、様々なことを制限されています。

この茶番が始まったばかりの、マスクが強制でもないころ、大手スーパーで子ども用のマスクが売られるようになりました。流行の先端とばかりに、若い母親が小さな我が子にマスクをさせました。それを見て、ああ、もう終わったなと思いました。それから、幼稚園バスや保育園バスを見ると、小さな子がキチンとマスクをして乗っているのを見かけるようになりました。社会全体で、子どもを虐待している、本当に、情けないと思いました。

この流行病は、今まで明らかにされていなかったことを、次々と目に見えるものにしました。これまでも、”大人の事情”で子どもが痛めつけられていることは、あちらこちらにありました。ただ、ぼんやりとしていただけで。また、そういうことを言えば、「しょうがなかった」とか、「じゃあ、どうしろって言うの!」「私もひどい目に遭ったのに!」と逆ギレされるのがオチです。過去の私でもあるのですけれど。

内海先生が「毒親」と言って叩かれてきましたけれど、内海先生の立ち位置が子どもや次世代だからです。それで、さんざん叩かれてきたことを思えば、もともと、社会全体で子どもを虐待してきたということです。

私など、「発達障害」が”作り出されてきた”経緯”を見てきただけに、「ウチの子、発達に問題があって・・・」と言う言葉を聞くと、それだけでモヤッとします。相手が期待しているとおり、「大変ですね」ってスッと言えたら苦労もないのですが、「今飲んでいるそのジュース、やめんかい!!」と心の中で叫んでしまいます。子どもにも飲ませているのだろうなって。よそんちの子に対して、私が涙したところで、1ミリたりとも状況は変わりませんし、私が疲れるだけです。

「発達障害」は、すっかり市民権を得てしまいましたが、今の茶番も次のモンキーちゃんもいっしょ。今まであった状態に新しい名前(病名、障害名)をつけることで、薬を売る手口です。ただ、今回の茶番のように、世界レベルで、大規模にやるとは思いませんでしたけれど。

また、原因を問わないのも特徴です。発達障害の原因は、栄養の問題、ワクチンなどの薬の問題、養育環境の問題、個性、学校などの”管理体制”との不和など、色々と考えられます。その原因を問い詰めると、大人たちは困ります。そういうことに思いが至っている人はかなりの少数派でしょう。


例えば、「身体は食べたものからできている」なんて、当たり前すぎることですが、それを言うと、現行医療は儲からなくなりますし、”病気の人”、特に慢性疾患の人は、我が身を振りかえらなければいけません。「病気は天から降ってくる」とするのが、現行医療にとっても”病気の人”にとっても都合がいいのです。そこにつけこんで、外国資本が延々と搾取し続けているのです。

そうした”大人の事情”が、子どもを大切にしてきた日本の良き伝統を叩き潰し、この国を崩壊に向わせている、これに気づかないバカな大人たちには、ほとほといやになります。最近、この状況に対する私のセンサーの感度が良すぎるようで、それが私の激やせ?の要因の一つのようです。


参政党が「大和魂を取り戻せ!」と叫んでいます。私も街頭演説の動画を見たり、講演などにも行ったことがあります。こんなに熱く、気持ちのこもった演説など、これまで聞いたことがありません。山本太郎氏のときにあったような違和感もあまりありません。もっとガンガンやってください、って思います。もう、”大人の事情”を言うのは止めましょうって。

でも、根本で考えている方向は同じでも、私は党員になることはないと思います。グループが苦手なのが大きな理由ですが、現行の政治体制の根幹である民主主義には関わりたくないと思うからです。

申し訳ないのですが、今の大人たちのレベルが低すぎますし、少しレベルが上がったところで衆愚政治に陥るだけだと思うからです。民主主義は理想的過ぎて、人間には難し過ぎると思うからです。


じゃあ、どうすればいいのか。ご先祖さまたちも、次世代も泣いています。そんな私に何ができるのだろうって、ずっと思っていました。


引っ越しをして、わりと時間に余裕があったころ、内村鑑三の『後世への最大遺物』を読みました。noteに書いたかどうか忘れましたけれど、若い日の中村哲さんが読んで深く感銘を受けたという本です。

結局、「生き方を見せよ」ということしか、私にはできないのだと思いました。

その前に、砂糖中毒、小麦粉中毒、食欲が正義、大人の事情・・・などにどっぷりと浸かっている人を見ても動じないことが重要だと思っています。脳みそでは分かっているのですが、身体が嫌がるようで、気分が悪くなります。ここはもう、神頼みかもしれません。


”GHQの被害者”から受け継いだものを、少しでも解毒して次に渡すのが私の役目かと思います。全く解毒できなくても、そうしようとした努力に意味があるのかと。そのために、「生き方を見せよ」ってことかなと思います。


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