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後ろ姿
この3月から住むところが変わり、第三の人生が始まる。ウキウキするような楽しみがないわけでもないが、心残りが色々とある。行った先でも色々とややこしいことがあるのも分かっている。その中で自分がどう振る舞うかも決めている。
でも、感情がそこまで至っていない。
変化を越えていかなければいけないことが、不安定で落ち着かないのだ。たとえ苦しくても、ルーティーンのように決まったことを日々やるほうがいい。
そんな甘っちょろい私とは比較にならない命がけのルーティンをこなされた大阿闍梨の塩沼亮潤氏。その講演の動画を見かけたので視聴してみた。
1300年間で2人目となる大峯千日回峰行満行を果たした塩沼亮潤大阿闍梨。48キロの山道を1日16時間掛けて歩き、それを千日間に亘って続ける過酷な行の中で、どのような悟りを得たのか。そして、9日間、断食・断水・不眠・不臥を続ける四無行満行という極限の世界で何を見つけたのか。塩沼氏が「創造と変革の志士」へ贈る「人生の歩み方」とは。(肩書きは2018年7月7日登壇当時のもの)
この動画の大半は修行のときのことで、その時に何を思ったのかについて語っておられた。もちろん、そのお話を聴くことができてよかったが、私が一番印象に残ったのは、会場の質問に対する塩沼氏の回答だった。
その質問は、
自分はチームのリーダー。チームの人にも自分と同じように”夢”を持ってほしいと思うが、ギャップが生じてしまう。どうすればいいのか
そこで、塩沼氏がお師匠さんに言われたことを紹介した。
「君たちに教えるものはない。ただ一緒に生活をしてもらって、後ろ姿から学んでもらうしかないんや。ついてくるものはついてくるやろうけれど、ついてこないものはついてこない。これはしょうがない。」
この話のあとに、
やる気のない人間に火をつけるのは、水揚げの雑巾にマッチ一本で火をつけるようなものです。私たちもそれぞれ命があります。あまりそこに囚われると、どんどんと自分の命が削られていきます。
と続けられた。
私の「心残り」の正体は、「罪悪感」だ。
中村先生が、夫を置いてオーストラリアから日本に逃げてきた人の話や、食などに気を遣って子育てをしてきたのに、娘さんが打ってしまった人の話を紹介されている。
私も、ケースは違うけれど、共通する思いがある。○ロナ脳の身内から逃げ出すことにしている。私が食などに気をつけるようになる前に、家を出た上の子たちは接種済みだ。彼らはオカンはインボー論にはまっていると思っている。彼らも見捨てて行く。
私も何度泣いたか分からない。
昨日、ああ書いておきながら、説得できなかった自分をやっぱり責めている。罪悪感に囚われているのだ。
私も、他人を動かそうと思えば、後ろ姿を見てもらうしかないと思っている。これは、子育てをさせてもらって得た知恵だ。ここを離れるのは「後ろ姿を見せるため」と思いながら、吹っ切っても、吹っ切っても、吹っ切れないでいた。
私たちもそれぞれ命があります。あまりそこに囚われると、どんどんと自分の命が削られていきます。
私の命は私のものではない。
これは、私にとっての大前提だ。
「それなのに、罪悪感に囚われて、勝手に削ってはいけない」
それを力強くおっしゃってくださったことで、きゅうきゅうと私を締めあげていた罪悪感という紐が一気に解けたような気がした。
そして、私がしようとしている方向で大丈夫だよ、とおっしゃってくださった気もした。
長い間、人に影響を与えて、だんだん覚えていただくことを「薫習(くんじゅう)」と言います。・・・この「薫習」というのが、人の教育において一番大切なことだと思います。
くん‐じゅう〔‐ジフ〕【薫習】仏語。香が物にその香りを移して、いつまでも残るように、みずからの行為が、心に習慣となって残ること。
罪悪感に囚われる環境から離れたところに行き、そこで後ろ姿を見せるほうが、はるかに効果的だということだ。
だから、私はただ、後ろ姿を磨くことに集中すればばいいし、これをルーティンにすればいい。
そう思うと、なんだか元気が出てきた。
命がけの修行をしたというのは、尊い後ろ姿になるということかもしれない。通りがかりにふらっと見た私のぐらつきを見事に止めた。ご本人が知らないところで大きな影響を発揮するということなのか。
そんなことを思った。
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