後ろ姿
この3月から住むところが変わり、第三の人生が始まる。ウキウキするような楽しみがないわけでもないが、心残りが色々とある。行った先でも色々とややこしいことがあるのも分かっている。その中で自分がどう振る舞うかも決めている。
でも、感情がそこまで至っていない。
変化を越えていかなければいけないことが、不安定で落ち着かないのだ。たとえ苦しくても、ルーティーンのように決まったことを日々やるほうがいい。
そんな甘っちょろい私とは比較にならない命がけのルーティンをこなされた大阿闍梨の塩沼亮潤氏。その講演の動画を見かけたので視聴してみた。
この動画の大半は修行のときのことで、その時に何を思ったのかについて語っておられた。もちろん、そのお話を聴くことができてよかったが、私が一番印象に残ったのは、会場の質問に対する塩沼氏の回答だった。
その質問は、
そこで、塩沼氏がお師匠さんに言われたことを紹介した。
この話のあとに、
と続けられた。
私の「心残り」の正体は、「罪悪感」だ。
中村先生が、夫を置いてオーストラリアから日本に逃げてきた人の話や、食などに気を遣って子育てをしてきたのに、娘さんが打ってしまった人の話を紹介されている。
私も、ケースは違うけれど、共通する思いがある。○ロナ脳の身内から逃げ出すことにしている。私が食などに気をつけるようになる前に、家を出た上の子たちは接種済みだ。彼らはオカンはインボー論にはまっていると思っている。彼らも見捨てて行く。
私も何度泣いたか分からない。
昨日、ああ書いておきながら、説得できなかった自分をやっぱり責めている。罪悪感に囚われているのだ。
私も、他人を動かそうと思えば、後ろ姿を見てもらうしかないと思っている。これは、子育てをさせてもらって得た知恵だ。ここを離れるのは「後ろ姿を見せるため」と思いながら、吹っ切っても、吹っ切っても、吹っ切れないでいた。
私の命は私のものではない。
これは、私にとっての大前提だ。
「それなのに、罪悪感に囚われて、勝手に削ってはいけない」
それを力強くおっしゃってくださったことで、きゅうきゅうと私を締めあげていた罪悪感という紐が一気に解けたような気がした。
そして、私がしようとしている方向で大丈夫だよ、とおっしゃってくださった気もした。
罪悪感に囚われる環境から離れたところに行き、そこで後ろ姿を見せるほうが、はるかに効果的だということだ。
だから、私はただ、後ろ姿を磨くことに集中すればばいいし、これをルーティンにすればいい。
そう思うと、なんだか元気が出てきた。
命がけの修行をしたというのは、尊い後ろ姿になるということかもしれない。通りがかりにふらっと見た私のぐらつきを見事に止めた。ご本人が知らないところで大きな影響を発揮するということなのか。
そんなことを思った。
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