受け身こそ最強の主体性
タイトル画像は2,3日前に撮影したもので、1ヶ月前はオレンジ色でした。
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いつもなるほどと思って拝読しているchihiro.satoschuhさんのFB記事。なんとなく感じていることを、的確に言語化されていたり、何かと気づきをいただいています。昨日(一昨日?)の記事もその一つです。
「チャクラ」は聞いたことはありますが、よく分かりません。ググってみると、こういうものだそうです。
chihiroさんの記事にある「頭頂チャクラ」というのは、第7チャクラのことだと思います。同じサイトでみると
ということだそうです。
私がこの記事がいいと思ったのは「チャクラ」は別として、私がぼんやり思っていたことを言語化しているからです。
昔から下僕(しもべ)体質(M?)ゆえ、若い頃は、他人、特に親のエゴに振り回されて、色々と悩むことが多かったです。でも、最近は仕分けが上手くできるようになりました。これは私がするべきことで、そっちはどんなに懇願されてもやらない、そういった線引きができるようになりました。
他人からすれば、「そこまでやらなくても・・・」とか、「それくらやってあげれば」というようなことでも、私に割り当てられていると思うことはやりますし、懇願されても私の仕事ではないと判断したものはやりません。私がしなくても、その人自身でするか、別の誰かがやるでしょう。
荘子は「受け身こそ最強の主体性」という言葉を残したそうですが、まさにこのことだと思います。結局、最も自由であるというのはそういう状態です。
それを強く思ったきっかけは「権利!」を主張し「主体性」を声高に叫ぶフェミニストたちです。結局、一部の人の「利権」(≒お金)を得るための「権利!」ですし、「主体性」と言ってもフェミニストが定義し、それに縛られていくのが彼女たちの言う「主体性」です。フェミニズムが指し示したイデオロギーで、女性は幸せになりましたか?不幸になった女性が増えたように思います。真に自由であれば、幸せなはずです。まあ、そもそも家庭を破壊し、不妊にさせる思想ですから、幸せになるわけはない。何年か前にフェミニズムのドンであるU氏が「皆で平等に貧しくなろう」って、新聞に寄稿していましたしね。
例えば、今であれば、流行病に”参加”している人のように、「何か別のものに従わされながら生きている」人たち。何を言っても通じないのは、カルト宗教の信者と同じ。外から見ていれば、騙されて大切なものを自分から差し出しているのが分かるのだけれど、私にはどうすることもできない。
今まさに、淘汰が実行されているということだど思います。
私の15年前の体験では「神」が「不要な枝を手入れをなさる」と言われました。
淘汰しているのが人間だという話もあるそうです。
淘汰をする主体が誰であれ、現代は淘汰の時代なのでしょう。正直、そういう淘汰は見たくありません。私の周囲のほとんどが淘汰される側にいるでしょうから。できれば淘汰される側から抜けてほしいとは思うのですが、それも因縁というのか、私がなんとかできる範疇ではありません。だから、ひたすら、与えられたお役目を果たすしかないということです。そういうお役目があるということは、ありがたいことだと思います。
「受け身こそ最強の主体性」
この意味が理解でき、実行できるようになれば、少なくとも淘汰されていることには気づくと思いますし、気づけば、次の行動ができると思います。
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