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我慢強さの裏返し

「我慢強いね」、「責任感が強いのはいいことだね」、と昔から言葉をかけられてきた。

でもそれは裏を返せば、人に自分の意見や不満を訴えるのが苦手であり続けた結果でもあるのかもしれない。誰かの逆鱗に触れることが怖くてNOと言えない、ちょっとの引っ込み思案が積もった結果なのかもしれない。

普段は「粘り強い」「責任感がある」という言葉で長所として片付けている性格を、少し捉え直してみようと思う。(長所の文字を塗りつぶして短所にするつもりはない)

相も変わらず私の中には「自分で考える」ことの重要性がしっかりと刻まれている。

誰かに頼ればいい、ずっとふらふら生きていける、今を楽しむために将来にツケを回す。

いとも簡単に思考停止になってしまう人の姿を反面教師にしてきた。

だから、私はいつも考える。
間違っていてもいいから、とりあえず自分で考えてみて、全ての手を試してみないと気が済まない。
ときにその思考が空回りして、簡単なものを難しく見てしまったり、オーバーヒートしたりするわけだけれど。そんなところも私らしいと言うことができる。

考える癖がついた。
そうしたら、「我慢強いね」と言われた。

考え続けることは我慢ではないと思っていたので意外に思いつつ、人にはない我慢強さを持ち合わせたような気がして少し嬉しくなったりもした。反面教師にした甲斐があったように思えた。

我慢強くない彼ら彼女らを悪い見本として為した結果がそれ通りになった喜びを感じながら、我慢強さは私の性格として溶け込んでいった。

歳を重ね、環境も徐々に変わっていくにつれて、関わる人も増えてくる。
私はますます我慢強い人として認識されるようになる。

もしかしたら、ある種の期待を背負っているのかもしれない。
あまり縛られたくはないけれど、確かに自分を律する材料ではある。

まだもうちょっと自分でやってみたい。
まだ自分にできることがある。
誰もやりたくないのなら、敢えて取り組んでみようではないか。必要とされるなら。
今投げ出してしまったら、甘えではないだろうか。

そんな気持ちが湧いてくるようになった。

私はさじ加減が苦手だ。

我慢強さがどんどん極端になっていった。

溜め込みがちという性格を手に握りしめるようになった。

考え続ける人でありたいという強い思いに、ちょっとだけの周りからの期待の眼差しと、相性よく植ってしまったスポ根的な何かと、周りへの"やさしさ"と、その他得体の知れない諸々が混ざり合って、人に頼ることを最後の選択肢にまで追いやってしまった。

人に頼る選択肢が最初から頭にない猪突猛進タイプというわけではない。
選択肢としては最初からもっていながら、採択の余地があまりないだけだ。

実際に自分のキャパを超えることはそうそうない。
キャパを超える前に決まって感じるサインがあるため、突然倒れてしまったり、心がぽっきり折れてしまったり、音信不通になったりすることはない。

その分、まだ頑張れると思えてしまったり、周りからは体も心も強い人と思われたりする。

自分や他人に「休んだら?」は言えたとしても、「頑張るなよ」なんていう強くて分厚い言葉は届けられやしないのだ。

私は自分自身に「我慢強くあれ」という期待をかけているのかもしれない。
あんまり期待しすぎない方がいいよ、人に頼った方がいいよ、とはいつも心のどこかで声をかけているけれど。

我慢強いのは私にとって相性の良い性格だと思う。考え続けたいと願うならば、我慢強さも大切だろう。
けれどそれが暴走する前のブレーキに、「自分に『頑張るな』が言える」という強みもあればもっといいのになあ、と思っている。



我慢とは本来仏教用語であり、自分に執着することから生まれる慢心や驕り、強情のことを差すそうだ。
そのうち「人に弱みを決して見せないよう耐え忍ぶ」という強情さに焦点が当てられるようになって、今広く使われている意味になったらしい。

なるほど、自分への執着。

この執着という言葉も今の私が使う執着とは違うのかもしれないけれど、確かに何かにこだわるという意味では、私が我慢強さを手に入れたのは必然の結果なのかもしれない。

それでもって、あまりよくない言葉なのかもしれない。そりゃ、我慢のしすぎは何だって毒だ。



ちなみに我慢強くても打たれ強くはない。
それとこれとはまた別なのだなあ、と日々思っている。



…まあ、何事も上手く向き合っていきたいな、と思った次第である。