先入観と生きていく

周囲の物事や人物に対して先入観をもってかかることはよくないことだと言われている。

先入観というのはあればあるほど楽にものを見ることができる。疑うだけの体力を省いてくれる。ときには見ることすらしなくていいと思わせてくれる。

それだけ聞けば疲れた心には薬のように聞こえるけれど、長い目で落ち着いて見てみれば、それは後戻りできない、破壊的な、中毒性のあるものだ。

目先の利益にとらわれてしまうのも頭ごなしに否定する人になるのも嫌なので、私は大人しく中毒から抜け出そうとしている。
けれども完全に脱することは難しい。というか、正直できないと思っている。自分の生涯を終始見守る自分以外の存在にはなれないので、「いついかなるときも、何事も真っ直ぐに」なんて限界がある。

うまい付き合い方をずっと模索している。晴れの日も、雨の日も。

中毒症状を治したいと思った私にとって一番の問題だったのは、自分自身への先入観だった。

人の言うことを素直に聞けない自分が、穿った見方ばかりする自分が、被害者ぶる自分が、何よりそれらを含めて変われない自分が嫌いで仕方なかった時期がある。

変われない、という先入観をもっていた。

「またこうじゃん、何回目なんだろうね?」
心の中で吐き捨てる癖がついて、一人で怯えていた。強迫観念とでもいうのだろうか。



自分に対する先入観は怖い。誰も知らない可能性も、自分だけが気付きうる可能性も、「自分は〇〇だから」の一言で全て排除してしまう。

そんな自作のカンムリを頭にはめて、そのカンムリらしく振る舞おうとしてしまう。

自分は〇〇だから、あれができない。自分は〇〇な性格だから、これは向いてない。

自分のことを誰かに紹介するにはカンムリは便利だ。目立つし、個性だし、自分のことを伝えやすい。

でも、「このカンムリはあなたにとっての正義です」なんて保証書は絶対に作らなかったはずなのに、いつの間にかカンムリ本体が自分自身みたいになってしまって、色々諦めたり、驕ったり、怠けたりする。

気がついた時からずっと隣にあった自分自身に対するカンムリを手放すのはなんだかもったいなく感じるかもしれない。
(カンムリじゃなくて先入観と言えば、もったいないとは思わないのにな)

不完全なカンムリに頭を締め付けられて中毒になってしまったら、少しずつカンムリを外していけばいい。変えていけばいい。

この言葉が、「変われない」という思いが最前面に出ている人にはとんでもなくつらいことのように思えてしまうことも、分かっている。

大丈夫。180°変わるわけじゃない。今までの自分を全部否定して変えることじゃない。
今の自分は将来の自分に必ず生きる。試すことは絶対に無駄でもないし、リスクでもない。
どう聞こえるかもそれぞれのカンムリ次第だけれど、つらいならもがくしかなくて、どうせならいい方向に向かってもがいた方がいいのかもしれないし、もがく方向を見つけるのも、もがくか否かを決めるのも、自分次第だ。

ダメだったらダメだったで、へへ、と笑ったって誰も叱りやしない。

そんな言葉を、過去の自分にも宛てておく。

あと、先入観の全くない見方ができないのは、持ち前の完璧主義にも敵わない世の摂理なので(※仮説)、あまり最初から高いところを見るとつまづいて膝を擦りむくかもね。というのも言っておく。

カンムリがあるとどうしてもそれに自分を当てはめてしまうので、私はあまり自分にカンムリを持たないようにしている。

「こういう性格だから」、「こういう身分だから」、「こういう状況だから」、「こういう経験の持ち主だから」、「こういう"病"の持ち主だから」で全てさっくりと味気なく判断するのはやめた。

本当は自称したいことがたくさんある。(散々してきたと言えばしてきたけれど。)
いいカンムリは持ってもいいけれど、可能性の芽を摘んでしまうカンムリは、そっと心の中に閉まっている。
初心者の域から脱するまでは、まだその方がいい気がしている。



カンムリを嵌めていたっていなくたって、人は人だ。
カンムリを嵌めるのもまた、人間らしくはあるけれど。