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ある少女の等身大で、生きていく。

こんにちは。エスカルゴは食べたことがありません、みうです。
今回は私の小・中学時代の趣味であった物語を書くことについて話します(あまり覚えていないので、推測に頼る部分もあります)。noteでのHNの由来も紹介します。

自身の根底にあるものなので、実際書いてみると熱が入ったようで、かなり長くなってしまいました。要約力皆無。
でも、自由に書いた結果です。ここで文字数削減とかしたら、noteを始めた目的の一つに背きます。はい、このまま残しておきます。

文章を書くのが好きだった。

そういう家系でもなんでもありません。ただ純粋に、私は昔から文章を書くのが好きでした。

昔は、夢のあるファンタジーものを書くのが特にお気に入りでした。
魔法の世界や宇宙船、あるいは某有名ゲームシリーズのキャラクターをモチーフにした話をたくさん書いていたのを覚えています。

小学3年生くらいからだと推測されるのですが、私は実際に物語を書き始めます。テーマはそのほとんどがファンタジーでした。
当時、ある繋がりで大学生の方と交流する機会が月に1度ありました(物語を書くこととはあまり関係のない場ではありました)。何も恥を知らない私は、自分と一回りも二回りも違う「大人」に自分の作品を見せることを目標にして色々な物語を書きました。
自分の憧れの人に自分の作品を見てもらうことが本当に嬉しかったのです。
その大学生の方はなんとも優しいことに、感想を手紙にして渡してくれました。その手紙は今でも大切にしています。

もちろん今見返せば稚拙な本です。それでも私にとってそれらの作品は今でも愛情を注ぐ対象です。

ファンタジーから、自己投影へ

その繋がりは小学5年生の時になくなり、自分の書いた物語を見せる大人はいなくなってしまいました。
それでも、1、2年書き続けたことでその楽しさに取り憑かれていました。

もっと書きたい。あれもこれも、書きたくてたまらない。

そんな衝動に駆られて、何か元ある作品から着想を得るファンタジーだけではなく、自分で一から作る物語を作ってみたり、作風の違う物語を作ってみたり、手書きからデジタルに変えてみたり。様々なことを試しました。

明らかに作風が変わったのは中学生の頃です。以前にも少しだけ紹介しましたが、私はこの頃「万能」な友人と自分を比較して落ち込み、閉塞感に苛まれるようになり、それはいつしか「性格」に変わっていたような気がします。

私ははけ口のないその感情を物語にぶつけます。
そこで生まれたのが一つの作品です。

『蝸牛』(かたつむり)

自分のその劣等感ともなんとも言えぬ感情を、このタイトルをつけた物語に、初めて文字にしました。主人公の言動に、自分自身の性格を、時には自分自身の行動や願望を重ねました。
その物語の主人公の一人の名前が、「水雨(みう)」でした。
そして、もう一人の主人公の名前は、「麻奈(まな)」でした。
水雨と麻奈は対立し合う人物ですが、根はよく似ている者同士です。

水雨は、もう一人の私でした。

人付き合いが苦手。どこか冷たくて周りに無関心。自分の言いたいことが言えなくて引っ込んで心を閉ざして(これがタイトルの由来)、周りに流されて、でもここぞという時には決心して強がる。

麻奈は、もう一人の水雨でした。

自分の苦しみを、何故か他人にぶつけてしまう。どうしようもない衝動に駆られて自制できない。それでもどこか捨てきれない良心が焦れったくて、それがまた自分を傷つけて、抱えきれなくなった分をまた他人にぶつけてしまう。

その二人に、当時の自分の葛藤を投影しました。

「みう」の世界観

『蝸牛』をはじめ、今手元に残っている作品を振り返ってみると、概してテーマになっているのが

「自分の中に、もう一人の自分がいる」
「自分は他人と相互に100%でわかり合うことができない」

というものです。
見出しからお気づきの方もいるかと思いますが、これは今の私の世界観でもあります。

先程紹介した『蝸牛』において、水雨目線で見ると麻奈はもう一人の自分です。つまりは当時の私自身の分身でもありました。水雨も麻奈も、等身大の自分だったのです。

他にも、

・自分のことを殺したがっている謎のヒトに出会って、(途中色々ありながら、)自分の前世の妹を取り戻しに行く物語
 (→主人公自身には自信のなさを投影し、前世の妹には二面性をもたせることにより生じる葛藤を投影する)

・1つのストーリーを3人の主人公の各々の視点から見る(=台詞部分だけ同じにして描写を全て変えたものを3回書く)物語
 (→発言の意図が表れないことによる3人の感情の錯綜、そして自分が関わりたい相手だけが尊くて、関係ない他人を蹴落とすのは皆同じだということ、さらに、自分が関わりたい相手に蹴落とされた時、自分はその相手にとっての「第三者」でしかないということを描く)

そういった物語ばかり書いていました(今思うとめっちゃダークサイド)。

表現もできない苦しみとの遭遇

高校に入学してからは時間に追われていたので、しばらく書くことを中断して、またゆとりのあるときにでも書こうと思っていました。

そう思っていたころ、それまでの(とても短い)人生の中で最も閉塞する出来事がおきます。


部活での葛藤が私を苦しめました。


ある夜、こんな感情をどうやって晴らしていたかとふと疑問に思いました。
やがて、ああそうだ、文にしてぶつけていたなと思い出しました。

「この葛藤も、書いたらいいんじゃないか?」

一瞬そう考えました。
けれど、筆をとるような心の余裕もなかった自分は、毎晩ベッドの上で涙を流して、やがてそれを枯らすことしかできなくなりました。

無理だ、この痛みは私には書けない、と。


そしてやがてその痛みは遠く薄れていきました。「そういうもの」と受け止めて飲み込むことで、その痛みは淡くなりました。

今はただ、「経験値」として私の心に残っているだけです。

少女の人生の続き

大学に入って約1年、世界観にも変化が表れます。
変化といっても、閉塞感も全て覆って何もかもが明るくなったわけではありません。未だにそういうモノの見方はしますし、むしろその見方は強まっているのかもしれません(今後の投稿に頻繁に出てくるテーマだと思います)。それでも、純粋に前を向けるようになりました。今までの私の「経験値」を肯定できるようになったという1つの変化でした。


このnoteを始めるときも、名前を迷いました。それまでのHNの多くは、水雨にあやかった「みう」でした。
でも世界観に変化が現れた今、『蝸牛』で描いたような、閉塞感に悩む水雨はもういないのではないかと思い、別の名前をつけることも考えました。

それでも私がこのHNにした一番の理由は、たとえ自分の世界観が変わっても、水雨は変わらず自分の分身だからです。

『蝸牛』で描かれた水雨、そしてそれを描いていた当時の自分も、きっと閉塞感に囚われたままの将来を第一に望んではいなかったと思うのです。

水雨は変わらず自分の分身です。麻奈も水雨の分身です。今も自分の中に生きているんだ、そう思っています。

ファンタジーを書くことから始めて、それが遷移して物語を書くことが自分の感情のはけ口になった。それすらもできなくなった日々を経験として抱えながら生きる今の自分は、この過去を身に纏いながら、これから先も道を辿っていくのです。

その時に隣に水雨や麻奈、他の自己投影されたキャラクター達(ひょっとしたら、ファンタジーの世界で描いたキャラクター達も)がいてくれる気がするのです。
だからやはり、きっかけになった水雨という人物を、その名で残しておきたいなと感じるのです。


…結局は、ノートの中で閉塞感に囚われたままの水雨という少女の人生の続きを、紙の上ではなくて、等身大の私という姿で紡いでいきたい、ということです。



…最初からそう言え!


とても長くなってしまいましたが、これが私のかつての趣味で、今の私の基礎をつくる重要なファクターになっています。
小中学生時代の大半はこれで語れる(中学時代は塾要素もありますが)ことになっていたので、私にしては激長の3,000字以上のロングランになってしまいました。

紙と記憶の中で生き続けている、私がかつて描いた主人公たちに、今を誇れるように生きていたいと思います。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。