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諦めたかどうかより大事なこと

これまでできなかったことが、今日できるようになった。
といっても自力で突然成功したのではなく、プロの助けを借りての話だが、それでも自分が一生懸命無知なりに努力したことが少しでも実るととても嬉しいものである。

まだ基本の「き」の字。というか、「k」。いや、パソコンに電源を入れてキーボードに手を据えたくらいか…?
そんな小さな一歩でも、大きな成長だと感じられることそれ自体にも意味を見出している。

些細なものを含めれば誰しも、何かを諦めた経験は数えきれないほどあるだろう。
些細って、本当に些細なレベル。
たとえば、逆上がり、十の位が2の数を二乗した結果の暗記(27×27とか)、目の下の不滅のクマ退治…あ、これら全部私のことなのだが。

諦めることを「やめること」と似た意味でとるなら、諦めることの対義語は続けることだ。
続けるのが苦手という人は多い。私ももれなくその一員で、noteこそ続いてはいるが、それまでは何事も続かない、飽きっぽい、サボり癖の強い人間だった。なんなら、自分が「やりたい」ではなく「やらなきゃ」という義務感で動いているものは、今でも続かない。何事も楽しいから続くんだろうなあ。

少し話は逸れたが、継続できないという意味と少し視点を変えて、「できるようになる/ならない」という点から振り返っても、諦めたことは少なくない。

特に運動に関してはそれが顕著だ。
縄跳びの三重跳びも、格好いいバタフライのフォームも、高く跳び上がって打つバレーボールのスパイクも、長く続くリフティングも、何度も挑戦した記憶はあるけれど。運動はそんなに得意ではないから、途中で練習をやめた。諦めても死にはしないし、学校だって卒業できる。そう思っていた。かなり言い訳がましいな。

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「諦めないで」という言葉はもちろん、背中を押してくれる。私だって自身にそう声をかけることがたくさんある。
他人にそう言われても、あまり引っかかりはないかもしれない。

でも、諦めることが必ずしも悪いとは限らない、とも言いたい。
諦めたら、諦めた分、他へ転化すればよいのだ。

コンプレックスを強みに変えて世の中的な成功をおさめた人物を、私たちはたくさん知っているはずだ。追いかけていたものをスパッとやめて全く別に見える分野や立場で活躍している人物も、たくさん知っているはずだ。
それと少し似ている部分があるだろうか。

自分にとってマイナスだったと感じられるものは、同時に、自分にとってとても重要なファクターでもあったのだと思う。
とても大切にしていたものが叶わなくて諦めるからはじめて「マイナス」になるのではないだろうか。
最初からどうでもよかったら、失敗しようが諦めようが、感情はマイナスにも動かない。

先に挙げたような運動音痴な自分は、その諦めを確実に座学のバネに転化した。さてこれがベストだったかと問われれば首を横に振るが、「運動できない→モヤモヤする→練習もしない→そのモヤモヤから勉強もやらない→モヤモヤ繁殖」の悪循環よりはマシかな、と思っている。

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それに、諦めるという決断を下すことは案外難しいのだ。
昨日も少し「変わらないという決心をしているから変われない」という話に触れたけれど、諦めることもまた、難しさを併せもっているのだと思う。
特に、「こうしたい」という強いポジティブさをもっていたものに対しては。

片想いを諦めるときのような諦めきれない気持ちがこれに近いのだろうか。
どこかでずっと引っ張ってしまったりなんかして。そんな時期もあったっけ?あまり実体験としては新鮮な感覚ではないけれど、多分そんな感じ。

様々な要因もあるが、人への信頼だってそうではないだろうか。
どんなに関係が崩れてしまっても、どこかで信じていたり。信じるしかないんだもの、といって「優しさ」を装ったり。そこには、「結局人を信じないと何も始まらない」という真理があるのかもしれないけれど。

私たちは諦めやすいかもしれないが、ときに、諦められない。

ならば、本当に重要なのは、「諦めたか続けられたか」、「諦めたか達成したか」というよりも、「その時々に自分のベストを出せたかどうか」なのかもしれない。



明日や明後日は、これについてもうちょっと書こうかな。あくまで予定だけれど。