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見えない神様

”百聞は一見に如かず”という言葉が日本語にある。百回も聞くより、一回でも見るほうがよくわかるという意味だ。これまで僕は自分の目でみたもの・感じたものしか信じてこなかった。というのも、違う環境で生きている以上、価値観の違いは必ずあると思っていたからだ。普段から外国人を見慣れている僕が、マッチョ、マッチョいわれてた友人の知り合いにあってみたら案外そうでもなかったというのなんかいい例だろう。友達に勧められたスキンケア製品の効果だって、自分で使ってみないとわからないし、結局、自分の感覚が一番信じられる。

おそらく、これは多くの人に当てはまる考え方で、なぜ神を信じないのかと聞くと、決まって彼らは”目で見えないから、触れられないから、本当にいるかわからない”と答える。僕もめちゃくちゃそうだった。聖書の言葉には感動しても、それだけで、”よしっ!イエス様を信じよう”とはならない。では、なぜ今こんなにもイエス様を信じれるのか。それは感じるからだ。

わかっている。ちょっとまってくれ。ここで読むのをやめて、僕のことを第六感いかれサイコ野郎だと思うのは簡単だが、話だけでも聞いてほしい。というのも、本当に感じるのだ。例えば、風は目には見えないけど、体では感じる。その感覚に似ているのかもしれない。僕の人生を振り返ると、思えばキリスト教との接点がとても多い。カトリックの幼稚園に通っていたこと、大学時代にクリスチャンの友人数名に出会ったこと、図らずもサークルの新勧でクリスチャン活動をしていたアメリカ人に出会ったこと、そして彼らと親交を深め、キリスト教の教えについて、より深く学んだこと。もし、大学で、国際関係の分野を志していなかったら?もし、キャンパスにいる何万人の新入生の中から学生ですらない彼らに話しかけなかったら?クリスチャン率が1%以下の日本という土地で、生まれ育った日本人として、ここまでキリスト教と関わりを持つことが本当にすべて偶然なのか。ましてや、もともとキリスト教に興味があるならまだしも、つい最近まで興味ゼロだった僕がこんなにも関わりを持つだろうか。今、僕の大好きなアメリカ人のクリスチャン7人と一緒に、聖書の勉強をするこの姿を一体、誰が想像できただろうか。他でもない神様だけだろう。すべての出会いにそうやって、意味があったと思うと、神様のことを目で見たことはないけど、体で、心で感じることができる。これまで自分に起きてきたことすべてが、神の御手の中でのことなのだと素直に思う。そしてなにより、信仰を始めてから、聖書の言葉を通して、より一層、神様の存在を身近に感じ、自分が変わっていくのがわかる。お酒に酔って、女遊びをし、罪の奴隷だった僕が、イエス様の十字架によって、罪ではなく、義を持って今、生きている。

ヨハネの黙示録3.20 [Revelation3.20] "見よ。わたしは、戸の外に立ってたたいている。だれでも、私の声を聴いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする。"

単なる偶然で終わらすんじゃなくて、一歩踏み出してみると、本当に世界が変わるのだ。神は僕たち以上に僕たちが本当に必要なものを知っている。何気ない日常の一瞬でも、それは本当に偶然だったのか、もう一度考えてみてほしい。今、あなたが僕の記事を読んでいるのも神様からのサインかもしれないんだから。

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