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クリスチャンの生活って窮屈?

一般的に、宗教と言えば、あれこれルールがあって大変そうというイメージがあると思う。キリスト教でいったら、日曜日の礼拝、婚前交渉、及び、自慰行為の禁止などなど、これらを全部守って窮屈じゃないかと言われたことがあるので、ここで僕の意見を言ってみる。

まず、キリスト教において、神の前に、人間がどのように生きなければならないかという基準が聖書に示されている。それを要約したものが十戒である。

1.あなたはわたしをおいて他に神があってはならない 2.あなたはいかなる像もつくってはならない 3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない 4.安息日を心に留め、これを聖別せよ 5.あなたの父母を敬え 6.殺してはならない 7.姦淫してはならない 8.盗んではならない 9.隣人に関して偽証してはならない 10.隣人の家を欲してはならない

しかも、これらのルールもただ守ればいいというわけではない。形式的な遵守ではなく、心のありかたまでもが厳しく問われている。特に、7番目の姦淫の罪には、今でも時々、悩まされている。

マタイの福音書5.28 "だれでもみだらな思いで女性を見るなら、それだけでもう、心の中では姦淫したことになる"

これとはもう一生闘う覚悟でいるのだが、やはり海とかで際どい恰好をした女性を見ると、頭が一瞬、エロい考えにもっていかれそうになる。

いやいや、ルール守れてないやん。と思ったかもしれない。

そう。クリスチャンとなった今でも僕は、度々、罪を犯してしまっている。つまり、何を言いたいかというと、神の前に正しい者など一人もいないのだ。"イエス様との出会い"という記事で水のコップのたとえについて話したが、僕たちは人は皆、罪人であって、十戒は僕らにその罪を気付かせるという側面がある。十戒を守ることはもちろん大事だが、それよりも大事なのは失敗しても、許しを得て、戻ってこれる信仰心だと思う。

そして、もう一つ。十戒は、僕たちを縛って、苦しめるためにあるのではなく、むしろ救うためにあるということをわかってもらいたい。例えば、自分の子供が包丁で遊んでいたら、親なら誰でもそれはだめだと取り上げるだろう。包丁なんかそれほど重くもないし、子供でも持つことぐらいはできるが、使い方をわかっていない子供に持たせるなど、気が気ではない。僕たちの欲望はそれと一緒だ。お金に目がくらんだり、怒りに身を任せたり、欲情してしまったり、それらは子供が包丁を振り回しているのと同じなのだ。聖書の教えは僕たちに正しい使い方を教え、導いてくれる。神は、キリストの十字架に免じて、僕たち人間を無罪としてくれただけでなく、十戒の一つ一つを守ることができるように、僕たちを向上させ、聖く正しい者へと導いてくれる。僕は、まだまだクリスチャンとして日も浅いし、罪もたくさん犯すけれど、自分が罪深い人間であると認識し、聖書の教えをもとに生活していることで、少しずつの自分の中で何かが変わってきている実感がある。そこで感じているのは、十戒に縛られることによる窮屈さではなく、罪からの解放による喜びと神への感謝なのだ。











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