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僕とイエス様の出会い

宗教なんてうさんくさい...と思うのが当たり前だと思う。僕もそうだった。特に大きな罪を犯したわけでもないし、特別、救いを求めているわけでもない、どこにでもいるただの大学生。

でも、そんな僕でも大切な友達の一人がクリスチャンだったから話だけでも聞いてみようと思った。その時の友達の話にとても感銘を受けたのを今でも覚えているし、僕がクリスチャンになったきっかけの一つでもあるからここで紹介したい。

マルコの福音書(Mark) 7.20-23 "人の内側から出るもの、それが問題。肉欲、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、あざむき、好色、ねたみ、悪口、高慢、あらゆる愚かさ、これらはみな、人の心の中からあふれ出す。この内側から出てくるものが人を汚す"とある。

聖書のこの部分を読んでから、友人はこう聞いてきた。今まで、一度も嘘をついたことがないか?欲望に駆られて、セックスしたことがないか?好きな人が他の人に取られて、嫉妬したことはないか?誰の心も傷つけたことはないか?...割愛(笑)もちろん小さなことをあげていけば、きりがないが、この時に僕が真っ先に思い出したのは、中学生の頃に母親の心を深く傷つけた経験だ。昔から、一番後悔していて、そんな自分が嫌いで、以降、他の人に優しく振舞ってきたつもりだが、どこか心の中でずっと残っていた。

僕の友人は次にこう続いた。例えば、僕たちの心をガラスコップの水だとしよう。もし、僕が今小さな罪を犯したとして、嘘をついたとして、ここに僕のつばを入れる。きみは飲めるかい?僕は笑って首を横に振った。いくら友人とはいえ、そんなもの飲めるわけがない。そして、次に友人はそのコップに真水をたくさん注いで僕に言ってきた。これなら飲める?...いや、飲めない。つまりこうだ。一度やってしまった愚かな行為は、これからの善行ではどうにもならない。まさにそうだった。過去の行為がずっと心の中に残っていた僕は悔しくも、感心してしまった。僕たちの心の中には罪ゆえに起こるものがある。反抗期の子供なんかは、それがどうしようもなくて心の中はいつも泥まみれ、爆発寸前のようなときもあると思う。でも、大人になって人はそれを理性や、人生の知恵で、その罪からくるものを抑え、鎮静させ、沈殿させる。なんとなく、澄んだ水のようにするのではなかろうか。でも、底の方にはどうしようもない感情がたまっている。それをそのままにして生きることはいつか、その罪が噴出してしまう。ただ、平静になって心を静めるだけではその罪が解決しない。

およそ2000年前、キリストの十字架によって、イエス様は僕たちの過去・未来・現在・すべての罪を受け止めてくださった。信じるものは、コップの水が移し替えられ、僕たちの生きている限り起こる罪(つば)がこれ以上入らないように蓋をしてくださる。

この話を聞いた当時、およそ信じられない話だと思ったが、たしかに僕の心は揺さぶられたし、キリスト教がより身近に感じたことは間違いない。この話を当時してくれたケビン君には感謝しているし、今となっては僕もイエス様の福音に感謝して毎日生きている。

さて、みなさんはどう思いますか?信じるか、信じないかはあなた次第?(笑)


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