理解

2021.10.19(最終更新)


彼の授業はおもしろかった。

わたしは興味の向かない事には指一本動かせない体の持ち主であった。
発言や立ち居振る舞いから、人間的に好かないなと感じてしまった先生の授業では辞書を3冊机に積み上げて枕にして仮眠するか(英和・和英・国語辞典だったかな、3冊でちょうどいい高さだった)、別の興味のある小説か漫画を集中して読んでいた。考えたいことがある時にはブラウスの第3ボタン下辺りからイヤホンの線を通し、ミスチルや、友達のお兄ちゃんから影響されたブルーハーツなんかを聴いていた(冬は無印のハイネックの薄いセーターをブレザーの下に着ていたのでその方が首元からの見えなさはばつぐんだった)。
先生方は気づいてか気づかずか何も言わずに看過してくれていた。
注意された憶えがない。一度3年生の時に「ちょっと(音量)やりすぎ、ドラム漏れてる」と、斜め後ろの男の子が肩つんつんして教えてくれたことがあるが、先生は何も言わなかった。無礼な振る舞いだし反省すべき点だが、今戻ってもまた同じ行為を選択すると思う。

また、わたしは大体1988〜1990年の頃から、根っからの精神論者だった。生涯を通して精神論者たるであろうというのは(もちろんその頃にはまだこんな言葉は憶えていないので別の表現で宣言していた)、自身で固い意志をもってし選択した、最終決定事項だった(まったく気苦労の多い道を選択をしたものだと呆れる気持ちもなくはないが後悔はない)。
有形の物より無形のものを常に重宝したし、この点においての価値観は未だ根本的には変わらない。
だがもどかしい事に、精神は肉体に紐づけられている。
わたしには知りたいことがたくさんあったが、時間もまた有限で、
多くの若者たちがそうであるように、忙しかった。取れる時間に睡眠を取らないと思考も体も、もたなかった。
更に、「小説は良いが漫画は読んではいけない」という謎の家庭内条例が幼い頃から発令されており(条例違反は次月のおこづかい減額処分)、家庭ではどうあっても漫画を読めないという不遇な環境背景もあったため、わたしにとって有用と思われない先生の話は生活の時間から端折はしょるよりほか選択肢はなかった。
この世界のどんなところにもちりばめられられている、先人達がのこしてくれた叡智に近づいてゆくためのヒントは、もちろん漫画界にも広く拡がっていると確信していたので(業界や場所をえらばずこれはどこにも満遍なくちりばめられている)、小・中学校時代にあまりれられなかった漫画からの学習の遅れを取り戻す必要もあった。
無礼な振る舞いをした授業の先生方、ごめんなさい。優しくそのまま包み込んでくださっていた(呆れてただけかも笑)事はきちんと認識していたと思います。
ありがとうございました。



1995年のその日、授業で教壇に立ち、
彼は「わかった」という言葉について話していた。

「ぼくが思うには、何をもってして『わかった』ということに自分の中で結論づけていいかというと... 」

黒板には向かっていなかった。
教科書を片手に窓側を見ながら(窓は黒板に向かって右手に広がっていた)、
何かを思い出しているように感じた。
それは夏の午後の授業で、7月だった気がする。窓の外にはミンミンゼミの声はまだほんの少し、ジジジジと鳴くセミの声のほうが多かった。
確か午後一番の授業で、教室全体の空気が少し気怠い雰囲気の中、後方の窓側の席では午後のお昼寝をしているひともいた。わたしは教室前方のドア付近、廊下側から2列目の前から2番目の席にいたと思う。
廊下には他所よそのクラスが奏でているリコーダーの音色が流れ着いていた。
開かれていた教科書のページは、芥川龍之介の羅生門だった。
中学生の頃から芥川が好きだったからその授業は起きていたのかもしれない。

みんなが、夏の始まりを予感しながら安心しきって心地よい、ゆるい午後の空気にたゆたっているように見えた。
この頃の日本(場所は首都圏)、7月に気温が30度を超すなどという日はほとんどなかったように記憶している。8月であっても、30度を超える予報の日にはテレビがはやし立てるように朝から騒いでいた記憶がある。

(確か社会科の先生だったと記憶しているが授業の余談に『1日24時間のあいだで10℃以上の寒暖差に哺乳類は適応できないと言われているんだ。このままのペースで温暖化が進めば俺はもういない頃にだがおまえらが大人になる頃は大変なことになるんだぞ、俺は困らないけどなヘヘン』とシニカルジョークで締めくくっていたが、誰も笑わなかったのでただのわるくちと化していた(1996年)。
本当にヘヘヘン!とか語尾につける先生だった、うそみたいだし漫画みたい笑
この内容を後々のちのちまで憶えておこう、また、この教師の言った内容を「正」と設定したとしてももっと早くそうなりそうだと思った。日中寒暖差10℃以上なんて珍しくない時代は、わたしの予想以上にあっという間にやってくることになる。追20211019)




「『わかった』という言葉をさらに深く考えていくと『理解した』ということに置き換えられる。では『理解した』というのは、何をもってして『理解した』ということにしていいのか?そんな事を学生時分じぶんのぼくは考えたんですね。
新聞やテレビのニュースを見る、内容を把握する、表面の部分を視覚的に見て理解した、この状態で『知っている』という事にしていいのか。
まぁ、ぼくも大学生の頃で若かったのもあったんでしょう、これは自分の目で見ないことには知っているという事にしてはならん!ていうような気持ちにかき立てられてひとり、他国の国境付近(これがどこのどの時事問題であったかは失念中)に一人で乗り込んだわけなんですねー。」

ここから彼は前述の内容の時の口調よりも心持ち早口になり、バックパッカーとして行った当時のリュックの大きさとか重さであるとか、辿り着くまでの道のりだとか、国境付近に兵士が見えて、長い銃を持っているのが遠目からも確認できたにも関わらず「まぁ、まさか撃ってはこないだろう(こちらは武装した複数でもないし等々)」と、若さたる勢いに任せて前進したら撃ってこられて(おそらく威嚇射撃?)、慌てて逃走したという話をテンポよくユーモアたっぷりに話してくれた。
それを聴いたわたしには、その国境付近の緊迫感が見えるかのような気がした。

今、集中して想起してみると、この彼の放浪記の部分の語り口調は熟練の芸人さんや噺家はなしかのようにすべらかだったように思う。そういえばいつも女生徒や父兄のお母さま方に囲まれていた映像が思い浮かぶので、
文語のみならずコミュニケーション能力も高く、
この頃のわたしが認識していた彼自身よりも遥かに(当たり前か笑)「言葉」に精通した研究者であったのかもしれない(口語における言葉にも精通されていた)。
(ここまで書いてよもやと、御名前をしっかり憶えていたので、検索をかけてみたら複数の書籍を出版されていらっしゃった。そういえばわたしが授業を受けていた時分にもすでに書籍の紹介をされていたのを思い出した。
そのうちの一冊をご紹介させてください。

詩人臨終大全」 中川 千春 先生 発表年 2005年
https://www.amazon.co.jp/dp/4896421442/ref=cm_sw_r_cp_api_glt_i_BAZ4KH7PCT46PDB67EYH



彼のその話の結びは大体以下のようなことだったように思う。

『わかった』『知っている』ということは、その場所にいた、見た、ということもひとつには重要であるが、『(他者に)説明できる』『教えられる』というところまで到達してこそ初めて『理解した』と自負してよい、との結論に至った

と、いうような内容だった(筆者主観・追憶)。

研究者というのはかくもストイックで奥まで届く深い視座を持ち、かつ労力をも惜しまない者なんだなーだとか、情報量の凄さに人知れず心の中でひどく感嘆したのを憶えている。
高校一年生だったので、中学教育からの授業の水準推移に驚いていたせいもあるかもしれない。当時その学校は進学校と呼ばれていたため(その後2002年頃に家庭教師をしていた際にも進学校とされていたが以降は知らない)、次の教育課程に進んだ暁にはこんなにも知力と自己鍛錬を積み上げて難関を突破した強者つわものと相対して行く事になるのかと、自分の精神がもつかわからんなこりゃ、などと想像しておののいたりした(筆者は中高共に公立学校)。
この点においては他教科ご担当の先生に対しても、その内容と情報の多さに感嘆した時期が一学年いっぱい続いたように思う。



うだるというほどの暑さでもない、夏の午後だった。




2021.8.28








【追記】

出来のよくない生徒であったわたしでも、
彼からは卒業までの間多くの学びや新しい視点を感受できた。
羅生門芥川龍之介 発表年・1915年)においては、「からす」と「カラス」の表記の違い(芥川の作中での漢字の使い分け)についての考察を教授してくださり、その後も、漢字の使い分け(漢字表記にするか平仮名か)等々を含む、彼独自の知見の共有はわたしのその後の考察にも大きく影響を及ぼした。古典とか漢文の授業に関してはあんまり思い出せない、これも不遜で不真面目な生徒でいいと選択した一つの結果だろう。先生、ごめんなさい。
確か卒論研究は安部公房だったとおっしゃっていたような気がする。記憶違いでしたらこれもごめんなさい(ごめんなさいばっかだな)。
提出物が返却された際、時折わたしの文章の表現を褒めるお言葉を添えてくださった事が何だか誇らしくうれしく、赤丸の隣りに走り書いたような速い筆跡の内容が、その後もパワーが足らない時に度々わたしの心に勇気や活力を注いでくれたように感じる。心がキャッチしたことは心に滞在するものだと、宇治原さんがおっしゃっておられた通りかもしれない。記憶に残りやすい。

卒業も間近になる頃、先生とは廊下ですれ違う度に(彼は3年間、担任だった事はそういえば一度もない)
「おっ、もう予備校は(どこにするか)決めたのかっ?」
(そのくらいどうしようもなく出来のわるい生徒だったのだ、今もだけど)
「先生、一応受かってるから!」
と、わたしがツッコミを入れる。この会話セットがお決まりのコンビ芸のように何回か繰り返された。

先生もわたしもわたしと一緒にいてくれた友人達も、みんな笑顔だった。すてきな時間と空間だった。


2021.8.30
2021.9.01

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