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自分のなかの "自分"

ものを書くときに、立ち位置を安定させることが難しい。昔は意識的に立ち位置を変えていたけれど、最近はかなり流動的になってきた。だからこそ、考えている間にどんどん別のひとに変わっていってしまうことが多い。

なにか特筆すべき疾患や障害でなくとも、ひとにはたくさんの "自分" がいると思う。よくある頭の中の天使と悪魔のように。
何人いるのか、どのくらい個として確立しているのかは人それぞれだと思うけれど、でも誰しもそうでしょう?と、この1年間繰り返してきたけれどあまり納得のいっていない顔を返されてきた。そのことに納得がいかないまま今年が終わりそうになっている。

わたしは、その "自分" がかなりはっきりと存在しているほうだと思う。自分がどこに立っているのか、どの "自分" と、どの "自分" がどのように関わっているのか、自分がその子に話しかけられるか、交渉を試みることができるか、そもそも前に立とうとするのか、がはっきりとある。文章の形で整然と語れる余裕はまだなくて、ずっと手探りのままだけれど、ひとに説明できなくてもわたしの中にはずっとある。

個は確立しているけれども、その一方でどの "自分" で振る舞うのかを固定するのは難しい。唯一子どもと接するときだけははっきりとそこに落ち着けられるのだけれども、そうでないとき、特に1人でいるときはコントロールが効かないことの方が多いなと思う。だからこそこうした文章を書くときは、文字の一つ一つにまでこだわらないと容易に乗っ取られてしまう気がして怖い。

わたしの「思い」ではなく「思考」について語ることが多いからかはわからないけれど、最近のnoteで理想とする私で立ちきれないことがとても気になってしまう。大抵の場合、次第に乗っ取られてしまって、どうしても戻れなくて、でもこれをどうにか記しておきたくて無理やり公開にまで持っていく。こんな整然とした私でいたくないのにという気持ちと、でも自分の中に「ある」、確立したものを言葉にしたいという思いの間で揺れ動きながら過ごしている。


〈追記〉
画像の文章は、米津玄師「花と嵐」より。
投稿するための画像として、自分の手書きの文字を探してきた。文章を打ち込むときは容易に自分が移り変わってしまうけれど、手書きのときは反対にそのときの自分がこれでもかというほどに主張してくるような気がしている。それは文体だけではなくて、書く文字も含めて。少しずつ書き記したものを見返したとき、細かな違いがそのときの "わたし" をいちばんストレートに表している気がして微笑ましくなる。