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与えることは、豊かさを生み出すパワー

与えるということは、
自分自身に生み出すパワーがあり
自分が豊かであることを思い出すもの。

逆に与えてもらうことは
自分自身に生み出す力や、自分自身には何もないということを証明する行為なのかもしれない。


そんなことをふと、思った。


今日、久々に
「CAの私がVIPのお客様に教わった話し方のエッセンス」
という本を読んだ。

ファーストクラスに乗る、いわゆるVIPの人は
CAに対しても言葉掛けを丁寧にしているのだなあと思った。

印象的だったのは、VIPは
・良い意味で損得勘定が優れている
・常に相手を立たせ、自分自身は語らず謙虚でいる
・見えないところを綺麗にし、それを驕り高ぶらない
ということ。

良い意味で損得勘定に優れている


これは、自分自身のメリット・デメリットではなく、
相手が損をしていないか、得を得ているかを常に考えて、そのバランスを取るというもの。

CAさんから、到着地のオススメのお店屋さんを聴いたVIPが
「余計な仕事をさせて、損をさせてしまってごめんね。でも僕はおかげでいいお店を教えてもらって得したよ。その代わりによかったら、休憩時間に手品かお話をさせてもらってもいいかな?」と提案されたそう。

手品かお話が得なのかという話は一旦置いておいて(笑)、
相手に、自分の希望を叶えるために業務外のことを頼んで損をさせたと思ったこの人は、
その埋め合わせに、自分のできる範囲で、相手の得になるようなことを提案していた。


最近、私はもらうことが多くて、全然与えられていないなぁと思っていたところだった。

与えるって、自分に余裕がないとできなかったり
その道でプロじゃないと知識を教えたりするのって出来ないよなぁ、と漠然と考えていて
こんな私が与えるようなものはない、今はご好意に甘えていただこう、ということが多かった。


でも、もらっているという精神でいると、自分自身のバランスが崩れて行くのを感じていた。
それに、与えられていない、と考えると、自分はもらってばかりでなんて卑怯なんだ、とか考え始めてくる。

次第に自分に自信がなくなって、
与えられていない自分にもダメ出しをし
自分には力がないと無力感に苛まれてきていた。


特に実家にいると、その気持ちになりやすいことに気がついた。
今ちょうど実家に帰ってきていて、今後の見通しがついていない状況。


そんな時に、ありがたいことに母親があれもこれもと色々としてくれる。
私はもう大の大人であるのに、いつまでも子供扱いされている。
食事なども作ってくれて、本当にありがたいし、
それも母親として楽しんでいるのが伝わって、その好意に甘えていた。

けれど、次第に自分自身が何も出来ない、
ただ与えてもらっている力ない人に感じられてきて
無気力になってきていた。



薄々、与える/与えられることが、人間として大きな分岐点であることを感じている中で、この本を再読した時に、この言葉が響いた。

そしてお風呂に浸かっている時に、
与えることって、パワーが戻ってくる行為だ、と気がついた。

与えられることは、それが自分にはないと受け入れていることで
「与えてもらうしかない」という考えは
自分は何も出来ない、ということを証明し続けていることなのではないか、という考えが降りてきた。

与えてもらうことが悪いわけでは全然ないと思う。
与えてもらったのに、受け取らないのって、その人の愛を受け取らないことと同義なのかなと思うと、
受け取れる自分の器でありたいと思う。


同時に、与えることは、前提として自分には何か渡せるものがある、という認識がある。
自分自身が豊かであるから、渡せる。

与えるって大きなことを考えがちだけど、自分が目の前の人に出来ることを、いまの自分でできる範囲で行うこと。

小話だっていいし、手を止めて聴くことだっていいし、自分ができることを提供して、その人に役立つことを考える。


相手に得をさせているようで、自分が見えない徳を積んでいるような気持ち。
(これまた自分の損得になってしまうのかもだけど)


相手の得になることはなんだろう?と考えて、与えていくこと。
すると、自然と自分は豊かであるから、周りに与えている、という認識が生じて、自分自身が豊かになっていく。


与えることで、実は自分が豊かになっている。
私は豊かな人でありたい。

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