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何も成し遂げてない男の自分語りは愚の骨頂だ

ありがとうございます!

何がって、この文章を読み始めてくださったことです。

初投稿なので自己紹介します。タイトルで思いっきり自分の首を絞めて窒息寸前なので、さっさといきますね。

基本情報です。

現在18歳。男。生まれは千葉。育ちも千葉。京都の大学(立命館)に通っている。趣味は、サッカー観戦・アニメ映画鑑賞(テレビアニメと実写映画を観るのも好き)・お笑い

将来の夢はアニメ映画をつくること!

でしたが、今は立ち止まって世界を広げながら、もういちど自分の人生を見つめなおしています。

noteでは、今は何者でもない自分ですが、日々の雑感を中心に文を書いていこうと思っています。

誰かの役に立てられるような作品が出来たら載せていきたいです。

気になった記事があったら、是非読んで感想やアドバイスをくださると嬉しいです! これからよろしくお願いします!



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ここから先は自分でも恥ずかしいほど自分語りをします。本当に読まなくていいです。

なんでこの人エンタメやりたいとか言ってんだ、と思った時に読んでいただけると、僕の書く文章が僅かに説得力を増すと思います。


大物がよく持っている(特にクリエイターに多い)、子供の頃に“いじめられていた”エピソード。霜降り明星のせいやさんから、「メモの魔力」でお馴染みの前田裕二さん、「あの花」の脚本を書いた岡田麿里まで、どのような分野で活躍されている方でもよく聞くのが、いじめられていたエピソードだ。いじめで苦しんでいる人がたくさんいる中、いじめられた人は将来必ず大物になれる、なんて軽々しくはいえない。だけど、いじめられた経験のある人は反動力を持っていると思う。

僕は保育園にいたころ、ガキ大将的なポジションの同級生から、階段の四段目から突き落とされたりしていじめられていた。5歳にしてPCゲームを趣味にしていたほど、幼くしてインドア派を覚醒させていた僕は、自然と、強いやつらの標的にされた。根暗人生の原点である。

僕はいじめられながらも、無事に年長になり、卒園パーティーのお遊戯会を迎えた。そこで行われる演劇は「キリストの誕生」という、大人も子供も楽しめる厳かな内容だった。そしてここで、自分史上最大の奇跡が起きた。いや、起こした。なんと、主役に立候補したのだ。過去の自分の行動を「のだ」などと祭り上げるのは非常に寒い。だが、この時は自意識など皆無であり(羨ましい)、なぜこのような勇気ある行動をとったのか未だに謎なので、その自己評価は許してほしい。

そうして、イエスキリストの父、ヨセフ役を演じきった。

園長先生からは、「大きく変わったで賞」を授与された。

これが、いじめられっ子が卒園パーティーの主役を演じるという、キリストもびっくりの大変化を遂げた僕の保育園児時代だ。

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そんなこんなで、エンターテイナー人生を華々しくスタートさせた・・・

わけではなく、小学校に入学すると早速、不登校になってしまった。

極度の人見知りが発動してしまったのだ。

具体的には、教室に入る際に「おはようございます」と大きな声で言うというルールがあったことが原因だ。当時の僕には、なぜ「あいさつ」をしなければならないのかわからなかった。

学校に行けない日々が二週間ほど続いた。幸い、とてもやさしい女性の先生が担任だったため、なんとか学校に通うことができるようになった。本当に感謝しかない。

それからというもの、小学1、2年は毎日PCゲームをしたり、本を読んだりと、根暗生活を謳歌していた。

人生の転機その弐がきたのは小学二年生の1月。なぜか知らないが、地元のサッカースクールに入ることになった。両親がサッカー好きということもあり、文字通り引きずられて体験に行かされた。

僕はそのチームで最底辺になった。練習試合では二軍のキーパーをやらされ、顔面にボールが当たって泣きながら退場することもしばしばあった。運動神経がない僕は、全くサッカーへのやる気が起きなかった。

小学三年生。FIFAワールドカップ2010南アフリカ大会。最近盛り上がってるな、とやんわり思いながら、たまたまテレビでやっていた準決勝、ウルグアイVSドイツの試合をぼんやりと観た。凄いと思った。国の誇りを懸け、必死に戦う選手たち。点が入ったときの、スタジアム全体に広がる異様な盛り上がり。鳴り響くブブゼラ。そして何よりも、ウルグアイ代表フォルラン選手のスーパーボレーシュート!(すみません、熱くなってきてしまいました) 自分が、同じ「サッカー」をやっていることに、誇りのような感情が湧いてきた。

その試合を観戦した次の日から、サッカーのテクニックであるフェイントの練習を始めた。物心がついてから、自分の意志で初めて努力をした。好きなことを努力すると、上達するようだ。いつの間にか、チームの最底辺だった僕は、スタメンに抜擢されるようになっていた。

時は流れ、中学高校とサッカーを続けた。高2時点でサッカー熱は最高潮になり、スペイン(バルセロナ)にまで行ってしまった。

サッカーとの出会いがなかったら、おそらくこの文は書いてない。エネルギッシュに生活できるようになったのは、紛れもなくサッカーのおかげだ。さらに、コミュニケーション能力は、サッカーをやっていなかったら絶望的に低いままだった。友達もゼロで高校を過ごすことになっていたはずだ。まずはここで、自分の人生を好転させたサッカーとの出会いに感謝したい。

時は戻り小学五年生。僕は、サッカーをやっているとき以外はもの静かだった。しかし、ある漫画に出会い、自分で言うのもあれだが、「豹変した」。

その漫画は『SKETDANCE』だ。友達が話題にしていて面白そうだったので、アニメを観てみたら、びっくり仰天、超面白かった。笑いころげた。すぐに漫画24巻セットを親に買ってもらった。こんなにひとつの「作品」に対して笑ったのは初めてだった。

小学六年生。スケダンに影響されながら、徐々に笑いのセンスを蓄えていき、ついに友達の前で一発ギャグをするようになった!!(なんでだよ)

そして同時に、YouTubeに動画を投稿をするようになった。YouTubeでゲーム実況動画を見ることにハマっていて、昔からパソコンいじりが好きだったこともあり、自分でもつくってみた。「ゆっくり実況」というジャンルで、自分でセリフをすべて打ち込んでコンピューター上で音声を記録するものだ。まだ小学生だったので、ソフトの設定だけで8時間もかかった。試行錯誤しながらも、憧れの動画づくりをしてる間はとても楽しかった。ここまで没頭した経験はなかなかない。そして動画が完成し、初めてYouTubeに動画を投稿したときは、最高に達成感があった。

中学では、サッカー部に所属しながらも、普段はギャグ担当、休日はゆっくり実況者という、なかなかのエンターテイナーっぷりを発揮していた。

中三の夏、事件が起こった。ひとつ年下で、同じYouTuber仲間のマイケル(仮名)が、先生にYouTubeがバレて説教させられたのだ。その噂は瞬く間に広がっていき、YouTubeの動画を友達に見せていた僕にも飛び火した。幸いその時点で先生にはバレていなかったが、友達に「先生に言っちゃうぞー」などと脅されるようになった。

さすがに耐え切れず、投稿していた動画を全削除した。あのときの辛さは忘れない。

中学生最大の事件と言えばそれだが、一番今の自分に影響を与えている出来事は、坂本龍馬との出会いだろう。発端は忘れたが、とにかくハマった。司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を全巻読み切り、長崎や京都など竜馬ゆかりの地を探訪し、竜馬イズムを根こそぎ吸収していった。

そしてそのときから、竜馬に憧れ、「何かを成し遂げたい」と思うようになった。志だけが高くなった。

以上中学生編。

ここまで読んでくださっている方がいるとは思えないけど、もうここまできたら書ききります!

高校入学。ひとりの女子のことを三年間追い続けたり、所属していたサッカー部が28人中22人辞めながらもなんとか最後まで続けたり、色々と苦労しながらもしっかり青春できたと思う。

YouTubeの方は、再び動画投稿をゼロから始めた。今度は生声で、ゲーム実況を中心に。とは言っても部活が忙しくて動画をつくる時間がなく、三年間で10本しか出せなかった。ちなみに総再生回数は9000回くらい。

まさかここまで来ている人はいないと思うから言っちゃうと、チャンネル名は「りゃめん」です。正直、しょうもないです。でも自分で見ると結構笑っちゃいます。

さて、高校二年生。スペイン旅行から帰ってきた辺りから、大きな夢ができた。

それは「アニメ映画をつくりたい!」だ。

なぜこう思うようになったか。それは、アニメ映画が好きという思い。ものづくりを将来もしていきたいという思い。人を楽しませる仕事がしたいという思い。毎日が刺激的な生活を大人になってもしたいという思い。

そして、この世に何かを遺したい、という思いからだ。

僕は困ったことに、考えすぎることが多い。死ぬときに自分は何を思うだろうとしょっちゅう考えてしまったりする。高校生になるとそれは激化していき、毎日寝る前に苦しい時間が訪れるようになった。ひたすら答えが欲しかった。

そして、

「自分が死んだあとにも誰かが面白がってくれるような作品をつくりたい」という答えが導き出された。

それができれば、希望に満ち溢れた死に方ができると思ったのだ。

それは、自分の生きた証が、未来永劫遺り続けていくことだ。

本気でそう思った。

そこで、作品とは何だ、と考えたとき最初に浮かんだのは映画だった。映画に恒久的な芸術性を感じた。しかも、それはエンターテインメントでもあり、現在同じ時代を生きる人も楽しませることができる。ゴッホのように死後評価されることは、残酷すぎると考えていたため、現在にも未来にも生きるような作品がつくりたかった。

ただ、部活などの忙しさから、それ以上の具体的なことを考える暇はなく、ひとまず人生の意義を見出せたところで思考を止めた。

その後、その考えを強くする、衝撃の2つの出会いがあった。

1つ目は、「宇宙よりも遠い場所」というテレビアニメとの出会いだ。ニコニコ動画を見漁っていたとき、ふと一話の無料配信を観て、これは面白そうだと続きも観始めた。

マジで感動した。

健気な女子高校生たちが、それぞれ複雑な思いを抱えながら、南極へ向かう。彼女たちが南極へ向かうそれぞれの動機が、とても共感できたし応援したくなる。そして勇気を出して、南極特有の様々な困難を乗り越え成長していく彼女たちの姿に、僕は人生最大規模の感動をもらった。堂々の好きなテレビアニメ第一位である。

これだけじゃ終わらない。制作秘話の記事を読んでさらに感動した。監督を中心に、スタッフが話し合いを重ね、ひとつの作品を完成させる。初めてアニメ制作の裏側を覗き、感銘を受けた。僕もそのクリエイティブな空間に入ってみたい、そう強く思った。

もう1つの出会いは、「風立ちぬ」

言わずと知れた宮崎駿監督の長編アニメーション映画だ。ジブリは昔から大好きだったけど、風立ちぬはなんとなく観れていなかった。高校二年の冬に初めて観て、とても言葉では形容できない特別な感情が湧いた。あえて一文字で表現するなら、「夢」と言うべきか。二郎さんのモノづくりに対する熱い思い。そしてモノづくりの夢。僕はやっぱりモノづくりがやりたい。この美しいモノづくりの世界で生きたい。そんな淡い夢、だけど自分の芯を貫き通す大きな夢がその瞬間にできた。

加えて、風立ちぬ公式ホームページにある、庵野秀明監督(風立ちぬでは声優)のインタビューが僕の気持ちに色を塗った。そこで語られていたのは、引用させていただくと、

「アニメや映画を作るということと飛行機を作るということは、作るものは違えども、夢を形にすることは同じ仕事なのだと強く思いますね。」

夢を形にする。これだ。

僕の人生はこの日に決まった。


やりたいことが決まり(未だ漠然としているが)、高校卒業後の進路はその方向に進むことにした。

しかし、人と違う人生を歩むことに執着していた僕は、進学はせずに1年間フリーターになろうと決意する。どうせアニメの専門学校に入るなら、その前に世界一周をして周りとの人間力に差をつけてからにしようと考えたのだ。そのバカさが、我ながら今は少し眩しい。

高2の正月。大学には行かない、という旨を親戚一同が集まる祖父母の家で話した。結果はもちろん、反対だ。そりゃそうだ。ここで僕の決意は揺らいだ。既に世界一周の予定などを考え始めていたが、一旦それは止め、もう一度進路を考え直すことにした。

そして最終的に出た結論は、「大学へは行こう。ただし、映画について学べるところへ進む」というものだ。大学=遠回り、という考えであったが、思っていたより専門的なことを学べる大学があることを知った。最初の第一志望は、日本大学芸術学部映画学科。そして最終的には、立命館大学映像学部を志望し、合格した。

ここまでで夢と希望に満ち溢れた高校編は終わり。


次は、絶望の大学入学編。

高校まで地元千葉にずっと住んでいたが、大学入学にあたって京都で一人暮らしをすることになった。正直、引っ越し直前は寂しさで泣きまくった。

京都に来て、新居に意気揚々!かと思いきや、思ったよりお金がかかる家具や電化製品に驚く。目の前で親が自分のためだけに高い金を払っているときふと夢が覚めてしまった。あれ、なにやってるんだろう。初めて「金」という現実を目の当たりにして一気に自分の選択を呪うようになった。自分のぼんやりとした夢のために、周りに迷惑をかけている。その事実が恐ろしくなってきた。

引っ越しを手伝ってくれた家族が去り、独りになった瞬間は、とにかく泣いた。泣いて泣いて泣いて泣いた。このままじっとしてたらおかしくなる、と思い、少し離れたところにある哲学の道というところに向かった。雨の降る中、その道を端から端まで歩いた。結構長い道を踏破したあと、僕は悟った。「新しい道を創った」のだと。これまで千葉で歩いてきた道。そこから外れて新たな道をつくったんだ。まだ歩きなれていないから不安だけど、きっとその道の先には、今まで歩いてきた道の先にはない場所がある。そしてこれまで歩いてきた道は、根っこのところでは繋がっている。だから、たぶん、大丈夫だ。そう思えたら希望が湧いてきた。初めて悟る経験をした。

そんな感じで初日にうまく寂しさを和らげて、順調に独り暮らしをしていった。が、ここで大学から衝撃のお知らせ。「春学期はすべてオンライン授業」と。そうなったら、もう京都にいる意味はない。帰ろう、おうちへ。

そのころ、「コロナ帰省」がTwitterのトレンドに上がるほど話題になっていた。Twitterには、「今帰省する人とか家族にウイルス移しに行くつもり?」など、帰省する人を厄介者と見るひとが多くいて、最初、僕はかなりためらった。まあ結局千葉に帰省した。今思えば、京都→千葉なら、普通のサラリーマンが自宅に帰るのと、ほぼリスクは変わらないから杞憂だった。

そしてここからは世界に絶望する帰省編

コロナウイルス。僕の人生はこれによって急停止した。とにかく夢に向かってワクワクを追いかけていた勢いが止まってしまった。正直それまではコロナウイルスの脅威を現実ととらえきれていなかった。コロナやばいなー、とどこか他人事にしていた。僕のこれまでの人生もそうだった。「諦めなければ夢は叶う」であったり、「才能より努力!」など、甘い言葉を鵜吞みにして、自分なら努力すれば何者かになれるんだ、と信じていた。考えないようにしていたのかもしれない。しかし、この状況では、強制的に現実を見なければいけなくなった。行動することで、自意識と向かい合わずに生きていたが、それもできなくなった。

そして、一気に現実が襲い掛かってきた。そう、自分は何者にもなれないのだ、と。そして、アニメを作りたいと言いながら、自分には才能がないのだと思い知った。ダメなら実写映画をやろうと思っていたがそれも叶わないのだ。なぜなら、これまで何もつくってこなかったし、今でも創作意欲が全然湧いてこないからだ。しかも、何かをつくるにしても「お金」が気になり始めてしまったのだ。前から少し気になってはいたが、立命館大学映像学部の学費は日本トップクラスの高さで、四年間でおよそ800万円。こんな大金を才能も保証されていない自分に投資してくれてるのか、と怖くなった。そしてそのプレッシャーから、なにもつくれなくなってしまった。つまり、完璧主義になってしまったのだ。駄作をつくって、自分の才能のなさを自覚するのが怖くなってしまった。もうこうなったら何も作れない。この世の作品もすべて味がしなくなった。自分に生きる希望をもたせてくれた夢を、諦めなければいけないのかと絶望した。この世のすべてがつまらなくなった。朝起きるとき、「あぁ、もう夢は叶わないのか」と絶望しながら目覚める日々が続いた。

そんな日々の中、大学で友達ができた。クラスのライングループで、たまたま声をかけてくれたT君と、電話で意気投合し、それからも度々連絡をとりあう仲となった。そんなT君と初めて電話した時、あまりにも悩んでいた僕は、初対面(もはや対面もしていない)のT君に、現実に絶望しているということを話した。T君は将来映画監督になりたいらしく、希望や夢に満ちていた。そして、そんなに浅い人間ではないらしく、生きる意味や好きなことを仕事にすることについてなど、かなり深い話をした。初回で。

僕の腐りは徐々にひどくなっていった。Twitterで頑張っているツイートをしているひとや、映像作品をつくっている学生を見つけては、心の中で、素人がなにやってんだ、などと罵倒するようになっていった。特に苛立ったのは、「今年の目標は“挑戦”です。たくさん映画を観て、たくさん本を読んで、たくさん人と会って、作品つくって、コンペに出して、オーディションもたくさん受ける!」というツイートを固定にしている、役者・監督・脚本家志望の同大学同学部所属の先輩だ。はっきり言ってクソだと思った。そのときは。今年の目標とかどうでもいいんだよ。たくさん本を読むとか映画を観るとか、わざわざ言わなくていいだろ。そうやって、「なんか凄そうな人」を文字だけで演出して、何者かになったつもりか? まず、そんなツイートをしてる時点でなんもできねーよ。と散々心の中で叫んだ。努力の過程を人に見てもらおうとする人が最高にカッコ悪いと思っているので、この人にはマジでずっとキレてた。今思えば別にどうでもいい存在だけど、その頃はまだ自分も何者かになれると思っていたので、同族嫌悪というやつだったのだろう。しかも、自分も今年の目標が「挑戦」だったし。

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なんとこの線の上の文章を書いてから半月が経過した。

そして僕は今、かなりポジティブに生きている。その要因は2つ、「諦め」と「自覚」である。

僕は将来何者かになることを諦めることに成功した。この呪縛から開放されたことで、心がとても軽くなった。なぜこのことに成功したのか、それは僕が真面目に生きることをやめたからだ。たぶん真面目過ぎる人ほど、この世の不条理に絶望してしまう。それを身をもって実感した。「もっとてきとーに生きる」これが今年1年の目標だ。

また、自分は才能があるかとか給料がどうかいう現実的な問題はあっても、やっぱりどうしてもエンタメの仕事がやりたいのだと自覚した。世の中には生活に困窮している人がいたり、少子高齢化によって限界集落となっている地域があったりと、解決しなくてはならない問題がたくさんある。さらに、現代は時代の過渡期であり、テクノロジーの発達によって世の中は大きく変わる。そんな中、必要な人材とは、プログラミングができたり、新たなIT系の事業を立ち上げられるような人材なのだろう。そんな世の中で自分は、そういった現実的な社会から目を背けているだけなんじゃないかと思った時期もあった。でも、それは一理あっても違う。なぜなら自分はエンタメをやるべき人間だからだ。人を楽しませることを最高の喜びとしているからだ。とても傲慢な発言だが、これは自信をもって言いたい。だから僕は世の中を便利にしよう、社会問題を解決していこうと努力する人たちに心から敬意を表しながら、世の中の役に立てるようなエンタメをやっていきたいと思う。

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というわけで、ここまでが7月7日現在までの自分の経歴です。まさかここまで読んでくれた方はいらっしゃらないとは思いますが、もしいたら心から感謝を言いたいです。

ぼんやりと夢を見ていた僕は、コロナウイルスの影響によって現実を見るようになり、人生に絶望しました。現在はポジティブに生きています。この人生に絶望する体験は自分にとって貴重な体験だったなと思っています。なぜなら自分と同じように人生に思い悩んだ人の心により添えられるようになったからです。

世知辛い世の中ではありますが、皆さんの役に立てるようなものをつくっていけるように頑張りたいです。これからもよろしくお願いします!



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