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昔は南ことりちゃんみたいな「かわいいだけ」のキャラが好きなやつを下に見てたよ。かわいければそれでいいんだろって

「かわいいだけ」でなんでも許せるというのはあまりにもそいつの器のでかさだけを表しているような気がしてならない。
そこに至るまでどれほどの怨嗟の夜を越えたのだろうか。その悟りの域をことりちゃんだけが感じさせてくれるのだろうか。

私は無印ラブライブにかつて魂を燃やしていた。今も昔も西木野真姫ちゃんを愛して止まない魂に陰りはない。
あの真面目で素直なのに素直になれない不器用さ、あまりにも高嶺のFlowerすぎる近寄りがたさに反して寂しがり屋という要素。あの髪の毛くるくるの動作を網膜に焼き付けたい。
ああ真姫ちゃんはかくも愛おしい。そんな熱量だけが命の灯火足り得る。

当時私には縁の遠い話であったが無印で特に人気があったのはことりちゃんだったように覚えている。
そんな中、私は心のどこかでことりちゃんのことを好きな人のことを「浅いヤツ」と見下していた。自分を高く見ていたわけではない。ことりちゃんのこと好きな人間の言う、彼女の好きなところは皆一様に「かわいい」からだと言うからだ。

ことりちゃんがかわいいだなんてことは見れば分かる。その上で燃える性癖の躍動を知りたいのだ。だから見下していた。浅きものどもよ、と。お前たちはかわいければそれでいいのだろと、あれくらいかわいかったら誰でもいいんだろとな。

だが真に浅はかだったのは常に私だ。あの頃の私には真姫ちゃんしか見えていなかった。言い訳でも免罪符でもない、あるいは盲信的で在りたかったのかも知れない。
そう、アニメ虹ヶ咲視聴を発端としラブライブ世界に帰って来るまで気がつかなかった。ことりちゃんという生物のすごさ、強さに。そして彼女を愛する者の器を、強さを。
いつだって無力を噛みしめる時間だけが俺を強くする。もっと、もっと強くなれる。弱かった自分を認めた時そう思えた。

ことりちゃんくらい「かわいいだけ」を貫き極めた生物はいない。良い意味でことりちゃんは本当にかわいいだけで持っている。
μ’sの中でもかなり有能な部類である、それでも彼女はかわいいが全てである。もちろんそこには私が真姫ちゃんのことを好きだからことりちゃんという生物の最奥に触れられないという事実もあるだろう。だがどれだけ分析し考えてもそれ以上の答えは出てこない。

ことりちゃんの場合は絶妙に地雷描写に富んでいることがそれを助長させている。チーズケーキ鍋だとかサイレント留学だとか。
なによりも【Wonderful Rush】MVの枕を忘れたから取りに帰るという強行はかなり賛否分かれる行動であろう。結果論として間に合ったから良いもののあれは器を試されるだとかそういった範疇の話を超えている。
だがそれでもことりちゃんのことを好きな人は許せるのであろう。無論、今となっては私だって許せる。そうだよね、お気に入りの枕だったら必要だもんね。家出る前に気付かなくて俺のほうこそごめんねとなる。

なぜならばことりちゃんはかわいいから。そう、ここに「かわいいだけ」の神威が宿る。この意味が分かるな。そう、その通りだ。
ことりちゃんほどシンプルにばかくそかわいいだけの生物は他にいない。これが答えだ。
対戦ゲームにおいて私は「強いから」という理由でキャラを選ぶ。往々にしてキャラの好きなところになると「強いところ」という回答が付き纏う。それとなんら変わらないのだと気がついたのだ。
「かわいいだけ」とはそれそのものが絶対であり唯一無二である。ある意味で究極である。美味しいから、楽しいから、強いから。理由付けを必要としない絶対にして最も短絡的なゴールの一つが常に目の前に存在しているのだ。
それは免罪符であり好きの動力であり、堕落である。

この世の全ての好きには必ず理由がある。好きであるのならば、どんな好きでもそれを紐解き考えれば必ず自分の性癖と繋がる。その現象の典型が「なんか好き」だ。
原因を追求できていないが心の根っこの好きに触れているから性癖センサーは反応している。でも当人はそれを自覚できていないからなんかよくわからんが好きで止まっている。
「なんか好き」に至ることを許さない。全ての理由を「かわいいから好き」に上書きするかわいいの暴力。それだけの力をことりちゃんは持っていたというわけだ。

事実これだけ純然たるかわいさで何でも許せる生物にはなかなかお目にかかれない。なるほどまあこんだけかわいければそれでいいよなとなれる。
そして圧倒的な力は人を寛大にする。前述した地雷要素があってなおことりちゃんが世界でかように人気なのは一重にその理屈をすっ飛ばして好きへ繋げる絶対的なかわいさが成せるものだ。

様々なジャンルに触れることで気づくことができた。ことりちゃんのすごさとヤバさに。だからことりちゃんのことが好きな人達に対する理解をも深めた。そしてその者たちの器の大きさにこそ感服した。
果たして私は同じステージに立てるだろうか。かわいいから許せる、かわいいだけで好きという魂のステージへ。
許すことができるものは強いものである。それを「かわいい」からだけで許せて愛せるのはそいつの愛のでかさ、ひいては器のでかさだけを表している。そんな偉大な戦士たちと私は同じ場所には立てない気がしてならない。

なぜならば私は真姫ちゃんのことを愛おしく想い好きだからだ。それに私は弱い。いつだって真姫ちゃんに許してもらう側の立場だ。彼女の強さに甘えている。
だから自信がない、ことりちゃんをかわいがって甘やかせる自信などない。だから彼女のことを好きな人達が偉大に見えるのだ。その器のでかさ、強さにこそ感服する。

かわいいは奥が深い。だが特に免罪符としてのかわいいはどこか背徳の味を孕んでいるように感じる。だから私はそれを理解こそできたが最奥に触れることは叶わないだろう。
そしてことりちゃんの強さと弱さ、持ち前のかわいさで許されながら生きていく。その生き方に感服と震えすら覚えた。そして感じた。かの神の曲【小夜啼鳥恋詩】の歌詞の真の意味を。
【籠の中 閉じ込めて】という歌詞は本当にことりちゃんにこそ相応しい、そう改めて感じた。

いつの日か私も真の意味で彼女をポジティブな意味で閉じ込めたいと思う時がくるのだろうか。

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