見出し画像

コパノリッキーの抱える孤独と依存心、理解っていますか【ウマ娘】

コパノリッキーは【ウマ娘】に登場するキャラクターだ。
この記事においてゲーム内における性能がどうのといった話はしない。
私がストーリーを読み、その溢れんばかりの庇護欲が性癖に引っかかったのでそれを伝えるものとなる。

上記が彼女における公式からの紹介だ。非常に明るく元気で一見するとあまり拗れ性癖を呼び寄せるものを持っているようには見えない。
実際、ストーリー中においても目に見えてあからさまな曇り方やダークサイドへの転向は見られない。もちろんストーリー上で苦悩したりで普段通りといかない場面もあるが、基本的には上記の通り明るく元気がモットーとなっておりブレない。
だからこそ言葉の節々や言動から滲み出る本質的な孤独のオーラが人を狂わせる。この子の言動はそれとなく重い、それが良い。本当に重いのか私の性癖に都合よく解釈しているのかの判別はつかないが私はそう感じた。
まあざっくりとではあるが個人的に熱かった部分を説明していく。

ライバルにすら理解されない、理想と現実の対比

目に見えない力を信じるリッキーとそれらを否定するホッコータルマエ

リッキーのストーリーを語る上で重要な存在となっているのはホッコータルマエとワンダーアキュートだ。彼女らはリッキーのライバルポジションに属している。
特にホッコータルマエはみんなを幸せにするというふんわりとした理想を追うリッキーと対象的に自分の走りで地元を盛り上げたいと現実的な夢を持つ対象的な存在だ。
ホッコータルマエについて重要なことは一つ、風水に対して否定的であるということ。リッキーのストーリーに現れては度々風水に対してというよりも風水にのめり込むリッキーに対して苦言を呈する。

上記のシーンは非常にそれが顕著に出ている。この関係性は、みんなを風水でハッピーにするという夢・理想を追うリッキーと自分が活躍することで故郷を盛り上げたいと現実的な目標を追うタルマエとの対比の構図になる。
作中でリッキーが言うように風水とは学術的な根拠に基づいた論理である。だが往々にして目に見えないものというのは理解されにくいものだ。リッキーも現実的ではあるのだがその夢の漠然とした大きさとそれ以上に堅実で地に足をつけた目標を追うタルマエと比べたらやはりどこか夢想的であると感じる。

否定しないが理解もしない、ワンダーアキュート

もうひとりのライバルといえるワンダーアキュートはリッキーの風水に対して否定をしない。彼女との交流において印象的なシーンが夏合宿の際だ。
かいつまんで説明をすると、一緒に合宿をしている多くのウマ娘はリッキーの風水に基づいたアドバイスを本気で受けない。それよりもアキュートへ相談をする。なぜか? ウマ娘にとってレースは人生をかけて挑むものだから。故に風水に知識のない他のウマ娘は曖昧で現実味のない風水の言葉よりも、アキュートが実際に経験してきた言葉を信じる。
風水に基づいてこうすればきっと未来が良くなると語るリッキーと対象的に過去こんなことがあったという経験を基にしたアドバイスをするアキュート。ここにも理想と現実という対比の構図が生まれている。
アキュートはリッキーの風水に対して否定はしないが別段理解もしない。ストーリー中での反応を見るに風水というものがどういうものなのかということすら理解はしてなさそうではある。

タルマエもアキュートもリッキーと友人関係でありライバルではある。決して関係は悪くないが風水に対する理解は見られない。そのため良きライバルであり友人ではあるが理解者ではないという構図が生まれている。
このライバルでありながら核となる風水の力を理解されないという孤独を感じさせる要素が胸にくるのだ。

このように、リッキーの思想は理解されないことがしばしばある。
無論理解されることもある。だが彼女が真に生きているといえるレースの世界における理解者は限りなく少ない。だからリッキーにはそこはかとない孤独感が透けて見えるのだ。
彼女らはライバルの一人として正当に実力を評価してくるから。風水のもたらす結果というのは目に見えないため目の前にあるリッキーの勝利という事実だけを認識される。

トレーナーこそが理解者?

トレセン学園という舞台において真にリッキーへ寄り添える存在はトレーナーしかいないのだ。リッキーと交流がありウマ娘としての実力も信じており風水を理解しようとする。ストーリー中においてそういった存在はトレーナーだけである。
リッキーのストーリー中において、レースでなにかを成し遂げるだとかそういった目標はあまり出てこない。基本的には風水でみんなをハッピーにする、そのために強くなりレースで勝って証明することが目的となる。
そんな戦いの最中生まれるライバルが前述の通りリアリストなのでそれは孤独な戦いとなる。その孤独なロードに理解者はいないのか。解釈によるが私の答えはいない。

トレーナー(私でありあなた、全にして個)でさえ真の理解者ではないと私は考える。基本的にはこちらから風水に対する矢印の全てはリッキーを介しているからだ。風水を信じているのではない、リッキーのことを信じているから彼女の信じる風水を信じるのだ。
だがリッキーは私が風水を信じていると思ってくれて、かけがえのない理解者としてそれなりの湿度を見せる。今まで風水に対して理解を示してくれるものが少なかったからと喜んでくれる。キャラストーリーにおいてもそのような旨のことを言う。
ここにこのようなすれ違いが生じている。実際に風水を信じているのだがそれそのものに対する信頼ではない。
これが何を意味するか、それはリッキーの持つ孤独、孤高の強調になる。彼女にとっては二人三脚での歩みかも知れないがその実やはり孤独な戦いであることに変わりはない。だからこそいいのだ。
後述するがリッキーからしてもずっとそばにいて支えてくれるものだとは思っていないかのように取れる言葉がしばしば出てくる。それはこちらとの風水に対する温度差を感じ取っての言葉かも知れない。重みがないのが逆に無自覚系のような気配を醸し出していて重い。

無自覚にさりげなく重い言葉の数

どんなに高い心の壁が例えで言った言葉なのかは解釈の別れる部分ではあるが少なからず心の距離を感じているのは確かである。
つまるところそれは現状の時点で何かしらの壁、あるいは距離感をトレーナーとの間に感じているということ。

問題のシーン。トレーナーに一生尽くしてほしいということであろうか。リッキーはこういった時に限らずもあまり冗談めいたことを言わないのでリッキーなりのギャグというわけではないだろう。つまりどこからどこまでが本気かは置いておいて本心から思っていることであるのは事実だ。
これは非常に解釈を広げられる部分だ。前述の通り一生尽くしてほしいと思っているという思考だけでなく、リッキーからしたら現状でトレーナーがそういう風にしていないように見える。という解釈も可能になる。
そこにあるものがなにか、そうなってほしいと考える独占欲なのかそれとも自身の為に尽力してくれる存在を求めているのか。どちらにせよここでトレーナーとの間で解釈の相違が起こっていたのは確かである。この後トレーナーは既にそのつもりでやっていたと答えるからだ。
つまりそれはリッキーの求める自身に尽くしてほしいと思うボーダーが高いということである。決してわがままなタイプであったりということはないのだが、こうして読み取っていくとさらりとものすごく重い思考なのだということが分かる。

今まで風水のことを真面目に聞いてくれる人が周りにあまりいなかったように捉えられる一言。事実父親以外から風水に対する理解を得られているような描写は見受けられない。こういったところからも彼女の人生単位での理解者になっている感がひしひしと伝わり、それによる向こうからのさりげない言葉から依存の心を邪推することが可能となる。
こういう細かく自身で考察できる重さからしか真なる栄養を接種することができないため非常に助かる。一目見て分かるものよりもよくよく考えたらこれこういうことなんじゃないとなるものの方が理解した気になることができる。匂わせにもよく似た妙技こそが人を狂わせる。

最も心を打たれた1シーン。これはつまり担当でなくなったら幸福を願ってもくれなくなるということなのであろうか。それともその頃にはもうトレーナー1人で日々の幸せを掴めるくらいの風水ができるようになっているであろう、という前向きな別れの意なのであろうか。どちらにせよここにおいてはいつかくる明確に別れを意識させる言葉が出てきている。
別れを意識させるからこそ人はその生物に対して慈しみや愛おしさを感じる。これはある種の死亡フラグのようなものと取る事もできる。
ここからがマグマとなる。じゃあリッキーはトレーナーといつかくる別れを覚悟しているのか、あるいは別れたい思っているのか。答えはノーだ。それは前述した一生尽くします発言にて回答が出ている。
リッキーはいつの日かトレーナーが自分の元から離れていくであろうことを予期しているのだ。その感情があるからこそ、無自覚か否かこういった言葉が飛び出してきているのではないかと私は考える。

リッキーを幸せにするも不幸にするも全てはこちらのさじ加減次第

上記のことを全て合わせ総合的に考えると辿り着く結論は1つ、自分に自信がない。あんなにも明るく元気で愛くるしいのにその根っこには不安と自信のなさが渦巻いているのだ。
私は庇護欲を掻き立てる生物が性癖だ、故にここでリッキーに撃ち抜かれた。友人もいる、ライバルもいる。だがそこに真の理解者がいない。私はリッキーにとって恐らく父親以外で初めての理解者となりうるであろう。
リッキーは無意識的に別れを恐れている、理解者である生物が離れていくことに対して恐れを抱いている。そこが愛おしいのだ。繰り返しになるが、そんな素振りを普段の立ち振舞から毛ほども見せないリッキーがさらっとそんな要素を見せてくる。そこに狂う。
人はギャップに魅力を感じる。辛気臭い顔をした人が暗かったり重かったりしてもそれはそうだろうと思ってしまう。だからこんなに明るくて笑顔が眩しいのにこいつ重いなと、そちらの方に魅力を感じてしまうのだ。
その点でいくとリッキーは正しくその通りであり完璧であった。まさかこんなにもさりげなくしかも本人に自覚なさそうに重いというのが素晴らしい。
手に入れたいだとか成し遂げたいといったプラスの原動力でなく、離れていってほしくないというマイナス寄りの原動力であるのがまたそれを強調させている。
あと福引で温泉旅行を当てた際にも当然のようにリッキーはトレーナーと2人でいく前提で話を進める。本当に当たり前のように同意も話し合いもなにも何とはなしに2人で温泉旅行する流れとなる。そういうところ。

今後、衣装違いであったりサポカにおいてまた新たな供給がやってくるのだろう。あるいはタルマエやアキュートのプレイアブルで登場することがあるかも知れない。そうなった時に気になることが1人でやっているリッキーがどんなものなのかということだ。
サポカ出演などにおけるトレーナーとして付いていない未来の話でリッキーがどんな心持ちでやっているのかということが気になる。そういったところでも今後の出番は気になる。

風水とは日々をほんの少し豊かに、幸せにするためのものだとリッキーは言う。それにより自分を見て風水を信じてくれた人が今より少しだけ幸せになってほしいと。それがリッキーの願いであるということが作中でも言われている。
だがそれらに隠れたリッキーの本心を紐解いて考察していけばそこにはお世辞にも少しの幸せとは言えない欲望が見えた。そこが素晴らしいのだ。しかも本人にはあまり自覚があるように見えない。だから良いのだ。
自覚のなさ、なぜ認知ができないのか。それはその感情に対する経験がないから、知らない感情を認知して名前をつけることはできない。リッキーにとってこれらの依存心とも取れる心境は初めてのことだ。その生殺与奪の権をこちらが握っていると考えるとあまりにも激しく燃え上がるような庇護欲が湧いてこないか。その芽生えた感情をどうするもこちらの行動1つである、力で圧倒的に劣るウマ娘に対し本質的かつ絶対的な主導権の手綱はこちらの手中にある。このアンバランスな力関係はウマ娘というコンテンツの持つ魅力の1つである。
それらを存分に活かしたリッキーという明るく可愛い生物が私の日常を、日々を以前より幸せなものにしたことは言うまでもないであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?