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環境が天才を生む

人間には自発性や主体性がなく、外部の影響に支配されて動く自動機械に過ぎない。 - マーク・トウェイン

これは、『人間とは何か』という著書の中の一文です。人間は環境から受けとったものを出力して行く機械のようなものだという主張から「人間機械論」とも呼ばれています。今回は、この少し過激なように見える「人間機械論」から人間について考えてみようと思います。

才能は大事か?

現代を生きる私たちは何かつけて、どうにもならない才能や遺伝の問題を取り上げ、自分がそこまでいけないのはしょうがないという理由を作るために「天才」という虚像を作り上げ、自分の地位を安定させようとしているように見えます。

勿論、馬の中でもディープインパクトを親に持つ馬の方が活躍している(中には全く活躍していない)という事実があるかもしれないのですが、僕は正直そのような遺伝はあまり関係していない、あっても微々たるものだと思っています。特に、若いうちなんかは「天才」で思考を止めてはいけないと思います。(著者のマーク・トウェインは遺伝も影響があると書いていますが、どこまで影響を及ぼすかは書いていませんでした)

私たちの能力と周りの環境は、私たちの体と食べた食べ物の関係と似ていると思います。私たちの体がどうやってここまで大きくなってきたかを考えてみると、それは自分が食べた食べ物によって自分の体が構成されてきているわけで、何も食べなくても自分の体が勝手に栄養素をどんどん作り出して体を大きくしていということはありません。体が作る栄養素もありますが、食べ物がないと餓死してしまうように、見かけ以上に些細なものだと思っています。

才能も体が作る栄養素と同じで限界があります。正直、自分が育ってきた外部環境、今いる環境が食べた食べ物で、才能が自分の体が作る些細な栄養素だと思います。そう考えると、現代の私たちは才能思想に以上に偏りすぎて、「才能があるから結果が出る」「才能がないから結果が出ない」という短絡な因果関係に帰結させようとしているように感じます。

才能の裏に隠されたもの

確かに、若いうちから活躍されている若手アスリートの方々や、その他の分野の若い方々を見ていると本当に生まれつきすごいものを持っていたに違いない(自分と近くにいたその友達は若いうちにそんなことできてなかったから)と思ってしまいます。「短期間で結果を出す(出したように見える)」→「何かがおかしい」→「あれは明らかに異常値なんだ」→「何か私たちとは違うものを持った特殊な例だからしょうがない」というロジックです。

でも、インタビューなどでよくよく彼らの話を聞いてみると、その年の私たちがキャッキャと鬼ごっこをしているときに、その若手アスリートは猛烈に練習していたり、鼻くそを穿っては食べていた3歳くらいの時には、もうトレーニングを始めていたなんてこともざらであります。

小さい頃からそのような打ち込めることに出会えたことが運だと言えばそれまでなのですが、明らかに何も成しえなかった私たちとは違う道を通っています。それを「先天的な才能」の一言で終わらせてしまうのはその若くから努力されてきた方に失礼であ流と思いますし、それは「悪いのは周りのせいだ」と何事も他責に押し付けて自分の成長につなげないようなもので、自分たちにとってももったいないことだと思います。

人間の順応力

少し話が変わりますが、この間1人でパリに行って来た話をしたいと思います。僕にとっては初の海外で、出国前には「日本語が通じなくなると結構過酷な環境に突然投げ出される」ということにすごく緊張していました。入国の際も入国審査官とのやりとりはガチガチで、綿密に調べてシミュレーションしたやりとりは一瞬でどこかに消えてしまいました。

英語も話せないし、外国初めてだし、スリとか怖いなと思いながら初日はなんとかホテルまでつくことができました。正直、その日の夜は「日本語通じないし、英語で言いたいこと言えないし、こんなに過酷な環境の中で自分はやっていけるか」ということを心配していました。

しかし、その次の日、情緒的に物事を考えてしまっていた自分とは一転して、冷静に「やっていけないこともないな」と思えるようになり、そこから僕は堂々とパリを歩いていけるようになりましたし、地下鉄も切符を買って難なく電車に乗れるようになりましたし、Paulでパンを買うこともできるようになりました。1週間の旅行の最後の方は、フランス語は喋れないものの、あたかも現地で生まれ育ったパリジェンヌのように振舞っていました。これは、僕が努力したというよりは、そうならざるを得ない環境が僕をそのようにさせたといったほうが正しいと思います。

僕はこの経験をした時に初めて「環境が人間を決定するという意味」と、「人間のとんでもないほどの順応力」を垣間見ました。あんなに苦労した初日からは一転、2日目からはスイスイと物事が進むようになり、最後の方はパリジェンヌのように振る舞えるようになる...全人類が持っている「順応力」という武器の驚異的な破壊力とそれを今まで全く使えていなかった自分がいたことにこの時気がつきました。

非凡な環境が非凡な才能を生む

僕はこのパリでの経験を通じて、いわゆる「天才」といわれる人が誕生していくまでの過程を感じることができました。もし、僕がパリのような経験を何十カ国もして、全然言語が通じないような人たちともコミュニケーションを取れるようになれば、「あいつは才能があるからできる」と言われるようになるんだと思います。これがもっと若くて15歳とかであれば「天才」と呼ばれるだけでしょう。

要するに、環境が“巷で言われている「才能がある」という人”を作り上げていくのだと思います。そう考えると、「才能がある人」「天才」は後天的に作ることができます。多くの人は、才能や天才の言葉で思考を停止させているので、表面的な言葉の意味(誤解させるような名前も悪いですが)しか汲み取ることができませんが、なんなら後天的にしか作ることができないと考えることもできます。

非凡な環境が非凡な才能を生みます。非凡な環境が「才能ある人」「天才」を生みます。だからこそ私たちは、何者かになりたいと思うのであれば「才能ある人」「天才」を生み出す環境に自分の身を置かなければなりません。逆に言えば、その非凡な環境に自分の身を置きさえすれば、多少は苦しいかもしれませんが後は人間の順応力が自分を「才能ある人」「天才」にまで持ち上げていってくれます。

環境を変えろ

もし、あなたが自分を変えたいと思うのであれば、まずは環境からガラリと変えてしまうのがいいと思います。今までと同じような環境と今までと同じような人付き合いのなかでは、自分が変わることは難しいでしょう。あくまでも人間は外部の影響に支配されて動く自動機械に過ぎません。過激に見えますが、人間の本質をかなり捉えていると思います。

ただ、私たちは「新しい場所に行く=未知の生物に襲われる可能性がある」という狩猟時代のシステムが本能として体に残ってしまっているので、最初の一歩を踏み出すのはなかなか難しいとは思いますが、これは人間の本能が時代の変化に追いつかなかったミスマッチなんだとお思えば少しは楽になると思います。

非凡な環境が非凡な才能を生みます。もちろん、時間もかかります。ただ、私たちにできることは究極的には待つことがだけです。過酷な環境に身を置いて、後はひたすら非凡な才能を身につくのを待ちましょう。「その日」は必ず来ます。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

1997年の日本生まれ。