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虚構としての「写真」と「映像」

僕が映像編集を始めて1ヶ月半経った今、自分の中での価値観の変化をふと振りかえってみた。1ヶ月半で、なかなか今まで見えてこなかったものが見えるようになってきたように感じる。

Webなどで流れている映像の見方、街で見かけるちょっとしたデザインなどなど、今まで普通にスルーしていたようなものが見えるようになり、それを映像にするにはどうしたらいいのか、はたまた3D空間に持ってくるにはどうしたらいいのかということを考えるようになった。

まあ、こんな感じで様々な変化はあったものの、僕の中で一番大きく変化したと思うのは、「写真や動画への考え方」である。それは、どうやって撮ったらうまく撮れるという技術論の話ではなく、写真や動画そのものの存在意義の話である。

僕は今まで写真というのは決定的となり得る証拠だと考えていた。動画も客観的で揺るぎない事実だと思っていた。しかし、テクノロジーが発展してきた現代社会ではどうやら写真や動画はその証拠、客観的事実としての能力を失ってしまったらしい。

言われてみれば当たり前の話だが、未だにLINEのスクショだったりTwitterのDMを暴露されてどうたらこうたらとなっているネット世界を見ていると、なかなかこの事実に気がつかない。ああいった写真も作ろうと思えばいくらでも作れるだろうし、本来ならどれだけ写真や動画を証拠としてあげても何の機能も果たさないはずである。

僕はこの写真・映像観に映像編集をするようになってから初めて気がついたが、多分多くの方々もこれから数年でこの価値観を持つようになり、「写真・動画=虚構」という考え方が浸透してくるように思われる。

虚構としての写真・映像

じゃあ、だからと言って写真や動画がオワコンかと言われれば全くそうではない。現実世界を正確に写実した証拠としての能力を失ってしまった反面、人に夢を見させる能力はすごく高まっているように感じる。

僕は今、自分がお世話になった方の結婚ムービーを作っていて、その過程で何十本もの結婚ムービーを見てきた。結婚ムービーは重要がある分、安価ながらもすごく発達していて、今ではドローン撮影や4K撮影が当たり前なのにも関わらず値段は10万円程というものもある。

その結婚ムービーの中では、幸せそうなカップルが終始楽しそうにスーツで海辺ではしゃいだり、山の頂上からドローンに向かって手を振ったり、完璧な化粧のまま家でまったりしている。これらは明らかに普通の日常ではなく、結婚ムービー用の日常である。

私たちはそれがわかっていても、その映像に感動してしまう。それを間違いなく虚構だと心のどこかでは捉えているものの、それに親しみを感じ、幸せな気持ちになってしまう。

虚構としての映像には間違いなく人を幸せにする力があることをつくづく感じるとともに、虚構の先にある幸せのために現実を写実する時代がもう来ていること身をもって体感した。そろそろ現実を元のベース素材として利用すること自体がおかしいとなってくる時代がくるのではないかと感じてきた。

写真や映像はもう虚構としての価値しかないのかもしれないが、むしろそっちの用途の方が写真や映像(特に映像)のポテンシャルをより発揮しているように感じる。

虚構としての写真や映像がこれからどのようになっていくのか、すごく楽しみであるとともに、自分もまた人がが幸せを感じるような美しい映像という虚構を作っていきたいと思う。

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1997年の日本生まれ。