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森五輪組織委員会長「女は話が長い」発言の問題の本質と人生100年時代の“自分をアップデートする“難しさ

いやぁ、これ、衝撃的だな。

一連のニュースや記事を知って、口をついてでた言葉だった。
そして、この言葉の元にある自分の感情を紐解いていくと、そこにあるのは怒りではなく「恐怖」だった。

時代にマッチしない失言

女性の数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制を促しておかないとなかなか終わらないんで困っているって、誰が言ったか言いませんけど、そんなこともあります。(森 会長)
出典:NHKニュース記事より引用 - https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210204/k10012849301000.html?utm_int=detail_contents_news-related_002

女性に対する差別は「セクハラ」だの「育休」だの「女性管理職率」だの騒がれる世の中で、見かけ上でも消えたものだと思ってた。
そして、83歳。分別のある「大人」にもほどがある年齢、政治家として活躍してきて、まぁこれまでも確かに色々あったけど、そんな立派な人が、こんなことを、あろうことかオリンピック関連組織の長という、明らかに国際世界にも注目される公職で、平然と言えるわけがない……初めはそう思った。でないと、恐ろしすぎるし、なにより、変な言い方だが、時代を反映していない “質の低すぎる失言“ だと感じた。
「きっとまたメディアが一部だけ意図的にトリミングして騒いでるんだろ?」そう願ってあらゆる記事を検索した。

本質的な問題はどこにあるのか

期待は、えてして悪い方に裏切られる。

事の問題やその影響、様々な考えはTwitterやらネットの海に任せるとして、私はこの発言のどこが問題なのか、本質はどこにあるのか、この得も言えぬ恐怖感はどこから来るのか、ちょっと自分の思考を書き下して整理しなきゃおさまらん。そう思って、このノートを書いている。

「女は話が長い」「女は1人が話し始めるとみんな発言しだす」

そこらへんにいる(いない?)ベランメェのテヤンデェな江戸っ子おじいちゃん(じゃりン子チエのお父さんが年取ったみたいな)を想像してみる。
すると、意外と言いそうなセリフだな、とも思えてもくる?

また別のおじいちゃん、例えば、ムツゴロウ先生みたいな博士気質な雰囲気で、行動心理や文化人類学とかの専門家が「私の研究上の経験・私見ではありますが」と前置きなんかして言ったとしたら…。
これも、意外と言いそうだし、ここまで波風立たないかもとも思えてくる?

周りくどく書いたが

「あらゆる差別を排することを願うスポーツの祭典」の長
👴
✖️
🚺
「女は○○だから」

この組み合わせが相当、相性が悪い。
肩書きのイメージ発言に距離がありすぎる。砲丸投げで言ったら間違いなく世界新記録並みの飛距離だ。知らんけど。

江戸っ子は江戸っ子らしく、ギャルはギャルらしく、社長は社長らしく。
そして、男は男らしく、女は女らしく。

(ある意味、皮肉だが)人間には多かれ少なかれいわゆる“ステレオタイプ“とも言われる「先入観」や「期待値」がインストールされている。
そして、今回その「オリンピック組織委員会長らしく」という周囲の暗黙的期待値と発言とのギャップがマイナスの方向に大きすぎたことが、この問題の本質だと考えられる。
ぶっきらぼうに言い換えれば、発言そのものの内容が問題なのではなく、コンテクスト(文脈)の問題、とも言える。

そして、そう考えると、私が「恐ろしい」と感じたことの源が見えてくる。

想像力の及ばぬ世界

伝わったことが、伝えたこと

私が新入社員のとき、社長がしきりに言っていたことで、とても印象に残っている。

自分の発言がどう相手に解釈されるのか、それを完全にコントロールすることはできないが、多くの人は、過去の経験や相手への思いやり、そして相手に自分がどう見えているかの「想像力」によって「言い方」や「タイミング」を考え、自分の思考をできるだけ適切に相手に“伝える“努力をしている。
それは社会性のある人として当たり前のマナーだと思う。

そして、森氏の今回の発言からは、この「思いやり」や「想像力」が感じられないのである。

テレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を選ぶっていうのは4割、これは文科省がうるさく言うんでね。(森 会長)
出典:NHKニュース記事より引用 - https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210204/k10012849301000.html?utm_int=detail_contents_news-related_002

「テレビがあるから」と言う時点で、マスメディアはある程度意識して発言している。
では、なぜ? ここからは私の想像ではあるが、森氏は、SNSを代表とした「インターネットの力」によって、自身への期待値と発言内容とのギャップが生んだ負の印象が、拡散されるたびに共振する波のように大きくなる、そんな現象が起こるなんて、想像だにしていなかったのだと思う。
もしかすると、こうなった今でさえ、なにが問題で、なぜ世間が騒いでいるのか、ともすれば世間がどれほど騒いでいるのかすら、見えていないのかもしれない。

自分の想像力が及ばぬ世界で起きた出来事。

こう考えていくと、これは森氏個人だけにとどまる問題ではない、日本、ともすれば現代世界全体に存在する構造的問題なのかも知れない、と思えて恐ろしくなってきたのである。

セルフブランディングに過敏な世の中

SNSがメインストリームの昨今。70億総主役化する世の中(相互監視社会化とも言えるかも知れない)で、自分が他人にどう見えているのか、いわゆる「セルフブランディング」に過剰なほど敏感になっていることは、止むに止まれぬ事実であろうと思う。

これは、前述の「伝わったことが伝えたこと」と言う考えの上では、良いことのようにも思える。これまでの内容が正しいと仮定して、少しでもここに過敏さがあれば、森氏はあんな発言(思っていたとしても)しなかっただろう。
(そもそも思いやりがあればしないんだけど)

しかし、自分が森さんの立場だったら、果たしてそんな感度を持っていると、確信を持って言えるだろうか。

自分をアップデートする難しさ

時代によって、暗黙的に正しいとされる “感覚“ は変わる。
人間の学習能力は老いによって低下する、なんてどこかの記事か本で見たこともある。

つまり、老いながらも “感覚“ を更新し続けることは、時と老が誰しもに平等に与えられる時点で、人類共通の課題であるとも考えられる。

人生100年時代。人間は生涯学習し続けなければいけない、なんて未来予測を見たこともあるが、本当にできるのか?

森氏の力なく直立しながら、感情なく “謝罪“ しているようにも見える姿を見ながら「恐怖」が込み上げてきた。明日は我が身、そんな言葉が頭をよぎる。

解決の示唆はないのか

自分の「恐怖」に向き合うために、少しでも解決の示唆はないのか、ここまで書きながら考えてきた。

(だんだん書く気力も無くなってきているので笑)ぶっきらぼうに書いてみる。書き残してみる。

自分の考えを “変える“ 必要はない、というか根本にある思想や観念はなかなか変えられない。これは人間誰しも多かれ少なかれ同じ条件だと思う。
しかし、先にも述べた、人に何かを “伝える“ ためには、相手のもつ考えや状況を「思いやる」ことが重要だ。

「思いやり」こそが、唯一の解決策なのではないか。

生きている時間に比例して、より多くの人と交流を交わし、その過程で相手を知り、考えや状況を推し量り、理解しようと努力する。
その積み重ねだけが、唯一若者にできないことだ。

経験の積み重ねによる多様な視点・視野・視座、そして多様な “思いやり“ で、古い感覚を補強していく。
それが、自分を時代にあわせてアップデートする唯一の方法なのかも知れない。


あとがき

誰かの「失言」を嘆くだけではなく、それも一つの視点と捉え、そこからなにを考えるか。
こんな時代だからこそ、転んでもタダじゃ起きないポジティブ精神を持っていきたいものです。

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