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ゆらゆら帝国⑩「空洞です」

アルバムについて

所持:済
好き度:★★

2007年に発売されたゆらゆら帝国の最後のアルバム。
ゆら帝はこれまでのアルバムでもある程度楽曲やサウンドに一定の統一性が見られたが本作は特にサウンド面において非常に統一感がある。
ほぼ全曲に渡ってクリーントーンのギターで演奏されており、アップテンポの曲も、劇的な展開になることもなく、常に一定の生ぬるいテンションのまま進んでいくコンセプチュアルなアルバムになっている。
そのあまりに隙間が多いアレンジ、特異な世界観が昨今の音楽雑誌や音楽好きから高い評価を受け、邦楽ロックの名盤についての談義ではほぼ必ず登場するほどである。

初期の作品から比べるともはや別のバンドとも言えるほどの作風の変化を見せるが、聴けば聴くほどに今作がこれまでのゆら帝のキャリアの集大成ともいえる作品だと気づくことができる。

曲ごとの感想

01. おはようまだやろう

トレモロがかかってゆらいだ音のギターから始まるこの曲は、正に朝起きたときのような気だるい雰囲気が特徴的。曲中で演奏されるサックスの音の甘さもとても気持ちいい。
テンションは常に一定で盛り上がることなく、聴いてるこちらも気持ちいい脱力感に浸かっていくようであり、一曲目にして本作の空気感を端的に表しているようだ。

02. できない

ドラムのビートから始まり、単調なギターのリフで展開される曲。
歌詞がとても秀逸で、「まだこの界隈はうだうだ」「適度にフリーな奴隷」などなど、シュールで語感の良いフレーズが連続するので聴いていてとても気持ちいい。それでいて、全体で歌詞を見るとなんとなく意味が分かりそうな感じなのが面白い。なんとなく、この曲と次の曲は諦観しているような内容が共通しているように感じる。

ライブではアルバムを発売する前から先行で演奏され、以降もほぼ必ずセトリに入っている程の後期の定番曲として有名。アルバム発売当時は音源に近いアレンジで演奏されていたが、回数を重ねるにつれてどんどんアレンジが変わっていった。

03. あえて抵抗しない

前曲から間髪明けずにいきなり始まり、こちらもトレモロが効いたシンプルなリフを中心に展開される。
こちらの曲も歌詞が良くて、まず出だしの「さしずめ俺は一見の空き家さ」から始まるのがとても衝撃的だ。一定して自分を敵に差し出しているような投げやりな歌詞が、とても脱力感があって好きな歌詞である。他にも「さしずめ俺はちょっとしたくぼみさ」など、非凡なフレーズが多数あるので何度聴いても飽きない。

ライブでは、「できない」共々アルバム発売から先行して演奏されてその後もほぼ必ずセトリに登場する後期の定番曲である。
この曲も当初は音源に近いアレンジだったが、なんとこちらは坂本さんはギターを持たずにマラカスを持って歌うという衝撃的なアレンジで演奏されるようになる。
同じくライブで劇的にアレンジが変化していった「できない」はどんどん歪みが強く、激しいアレンジになっていったのに対してこちらはよりミニマルなアレンジになっていったというのがとても対称的で面白い。

04. やさしい動物

脱力感溢れるミニマルな演奏が特徴的な曲。まるでぬるま湯に浸かっているような、一定して気だるげなノリで進むのだが何度も聴いて不思議とはまってしまうような曲だ。
後半からは「肉体がない だがまだ死んだわけではない」とつぶやくようにリフレインする歌と重なっていく展開があり、若干の君の悪さがサイケデリック。また、「おー行き場のない」「おーい牙のない」で全く同じ音で韻を踏む歌詞が特に素晴らしい。

こちらもライブでは独特の変貌を遂げた曲で、回数を重ねるにつれてこの曲でもギターを持たなくなるのだが、リズム隊の演奏に対してどんどんボーカルがずれていくという非常に前衛的でサイケなアレンジになった。このアレンジが気に入ったのか、後期のライブではそこそこ多く演奏された。

05. まだ生きている

60年代風味なギターリフが特徴的で、生ぬるいテンションのまま展開する曲が多い今作の中では、ギターがやや歪んでいたりと比較的従来の作風の名残を感じる曲。
その後ライブでは演奏されることが多い今作の曲だが、この曲はそれらに比べるとライブでの登場率は低めなのでなんとなく影が薄い…。

06. なんとなく夢を [Album Version]

シングル「美しい」に収録されていたカップリング曲のアルバムバージョンで、アレンジはシングルのものと大きく異なるものになっている。ライブでもほとんどこちらのアルバムバージョンで演奏される。

ポップで華やかなシングル版と雰囲気が全く異なり、こちらはアルバムの作風に合わせて虚無的な雰囲気を漂わせている。更にシングル版から補足するかのように歌詞が追加されており、ここもかなり違う点である。
正に夢を見ているような明るいシングル版に対してどこか現実的で空虚なアルバム版との対比が良い。

07. 美しい [Album Version]

シングル「美しい」の表題曲。
こちらも元々はシングルらしいキャッチーなアレンジだったものから、アルバムの作風に合わせて民族的なドラムとトレモロのギターリフがずっと続く極めてサイケなアレンジに変わっており、そのミニマルで単調な演奏は不思議な中毒性がある。時折挿まれる「ドゥ」というコーラスも気持ち悪くて好き。

08. 学校へ行ってきます

前曲と音が繋がっており、リフはそのまま続いて始まる。
イントロでは尺八が鳴り響き、神秘的な曲が始まるかと思うとベースの高音部を使った奇妙なリフと「美しい」のリフを背景に、ナンセンスな内容の語りが挿入されるという今作の中で特にサイケデリックな曲。曲が進むにつれてノイズのような音のコラージュがだんだん増えていくのもとても不安を掻き立てられて不気味だ。
色んな生き物が住む森の中、学校へ行くという内容にしては、とてもアシッドでダウナーなので妙なシュールさが好き。

09. ひとりぼっちの人工衛星

実験的でカオスな前曲から、この曲の優しいイントロが始まるとなんだか安心する。
今作中では特に優しい雰囲気を持った曲で、感傷的な歌詞も相まってアルバムが終盤であることを感じさせられる切なさもある。
無線が切れて、地球を離れて宇宙のどこかへと消えていく人工衛星の気持ちを歌ったような歌詞がとても切なく、後半からの自分の好きだったものを羅列していく展開はまるで走馬灯かのようでもあり、好きなものから離れていくがとにかく切ない。

ゆら帝が解散してしまった今聴くと、その後このアルバムを最後に解散した事実と絡めてより感傷的になってしまう名曲だ…。

10. 空洞です

今作のラストで、タイトル曲。
恋した時の感情を「空洞」と例えた歌詞が非常に秀逸で、いたるところに目フレーズが登場する。中でも「意味を求めて無意味なものがない」というフレーズは特に感心させられたし、何故だかゆら帝自体を表す歌詞のようにも感じた。
演奏に関しては今作一ポップで、メロディもとてもキャッチーなのでタイトル曲にも関わらずアレンジ面ではアルバムの中ではやや異色な雰囲気。間奏では1曲目にもあったサックスが再登場するなど、一貫して甘くメロウな雰囲気を醸し出している。

そしてこの曲は長いアウトロと共にフェードアウトして終わっていくのだが、正に聴いているこちらの気持ちが奪われて、その場に取り残されたような気分になる。彼らのラストを締めくくる切ない名曲だ。

まとめ

邦楽の名盤を語るうえで必ずと言っていいほど登場する今作が何故これほどまで現在でも高い評価を受けているのだろうか。要因を考えてみる。

まず、コンセプトアルバムとしての完成度が非常に高い点。
最初に説明したように今作に収録された10曲はサウンドや歌詞の雰囲気共に統一性が高い。先行でシングルとして発売されていた「美しい」「なんとなく夢を」ですら、大きくアレンジを変えてまで収録するほどの執着ぶりである。
今作の特徴であるミニマルで脱力感ある演奏だが、しびれ・めまい頃であれば恐らくギターを使わなかったり、ドラムを打ち込みにするなどの手法も使っていたかもしれない。しかし今作では一貫してあくまでも三人による演奏がメインとなっており、それこそが本作の何とも言えない温度感を作り出しているのだと思う。
これは雑誌のインタビューで答えていたが、今作はこれまでと違って先にアルバムコンセプトを決めたうえで作られたそうで、そう考えると今作の収録曲の統一感も非常に納得できる。

歌詞についても全ての曲に通底して一つのテーマがあるようにも感じられる。全体的に脱力感がある気だるいテンションなのだが、「できない」「あえて抵抗しない」「ひとりぼっちの人工衛星」などからはある種の諦観、諦めムードを強く感じる。サウンドも空洞なら歌詞も空洞、疲れているわけでもなく、元気なわけでもない。明るいアルバムというわけでもなければ、暗くもない、曖昧でどっちにもつかない正にぬるま湯のような内容。
単にミニマルな作風のバンド、アルバム自体なら今作以前にも、ポストパンクのムーヴメント以降、他のアーティストが様々な解釈で多くの作品を作り出しているわけだが、それを更に推し進めて「熱がない(=冷たい)」アルバムではなく、「温かいとも冷たいとも言えない温度感」にたどり着いたという点に革新性を見出されたのかもしれない。

最初ゆら帝はヘヴィなアングラサイケのバンドとして登場したが、徐々にガレージ系の音になり、メジャーデビューを通して独特のポップス性を手に入れる。しびれ・めまい以降ではバンドという形式の解体、再構築をして新たなサウンドを模索していたように感じられるが、「空洞です」でようやくそれらの実験や方法論が最高の形で結実したように感じる。
個人的にはゆら帝のそれまでの作風から今作にたどり着いたまでの道のりも含めて、今作を名盤という地位たらしめている要因としても挙げたい。名盤という前評判を聞いて今作だけを聴いてもピンとこなかった人は、過去のアルバムを順に聴いてから最後に今作を聴けばその変貌ぶりに驚くはずだ。
色んな作風を吸収してきたうえで、結果として最後となった今作が気の抜けたようなスカスカの雰囲気のアルバムというのも一つの到達点に行きついて達観しているかのようでもあるが、このあっけなさもある意味ゆら帝らしい最後とも感じる。

今作を最後に2010年に「バンドが完成してしまった」という理由で解散してしまったゆら帝だが、今までにやった作風を二度もやりたくないというバンドの意思もあり、今作を超えるアルバムを作ることができなかったのか、それとも今作の続きを描くことができなかったのか今でも考えさせられる。
メンバーをもってしても大きなハードルとなってしまった世紀の名盤でもある。

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