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竹生島⑥

竹生島⑤では、秀吉と秀次の嫡男問題の結末手前までを記した。


今回はその続きから…
今回もきっと新説!こんな視点あってもいいよね!
では、はじめます。

秀吉はその後お拾いのことを
「お」を付けるなと言っておきながら
自ら「おひろい」と呼んでいる。

手紙もお拾い宛が見られるようになってくる。
我が子として、後継ぎとして見始めた。
ということなんだろうな。

淀殿に対してはお拾い出産後「おちゃちゃ」から
「おかかさま」「御ふくろさま」と呼び名が変わっている。

もう淀殿は秀吉にとって可愛らしい側室ではなくなったということなんだろう。
この2人は亀裂の入った関係になったのだと思う。
なので文禄3年(1594年)3月20日
淀古城は廃城とされた。
淀殿の為の城はなくなった。

〔因みに淀城跡公園の淀城は江戸時代1623年に築城されたもので、淀殿が鶴松を産んだ城とは違う。淀殿の方は淀古城と呼ばれている。〕


秀次はというとその後
北政所や秀吉と花見に行ったりと
仲睦まじい関係をかんじさせる行事が度々行われている。

その関係も時間の問題だった。
なんせ子供はどんどん成長していく。
小さな赤ん坊のままではない。

ついに時が来た。

1594年4月、秀吉はお拾いを伏見城に移そうと秀次と淀殿を伏見に呼び寄せようとする。

なんとまぁ大胆なことをしようとする秀吉。
今までの話の流れからこれに読者は驚かないはずがない。
秀吉目の前に秀次と淀殿とお拾い。
いやいやその組み合わせはダメでしょ。何かが起こるにきまってるじゃない。
やばいやばい。さぁどうする?秀次、淀殿!


淀殿頭立ってもおられずついに動いた。
秀吉にこう伝えている。

『淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪い。』

この様に反対し、翌年3月まで延期されたとある。
淀殿もきっとこの時ばかりは必死だったに違いない。
我が子(鶴松)を理由に秀吉の指令を断るのだから。母親であるなら子供を言い訳にするなんて心が痛むにきまってる。
腹を痛めて産んだにも関わらず夭折した我が子にも縋るほどお拾いを守ろうとした。そう思えてくる。

それでも時は待ってくれない。
結局12月20日秀頼は伏見城へと移徙。

この年末年始はさぞ秀吉にとって最高超な気分で酔いしれたことだろう。
1595年3月には後陽成天皇より秀頼に剣・馬が与えられ、その翌日公家衆が伏見城に下向しこれを祝った。

そう。この頃から周囲は気がつきはじめた。
?????
何かがおかしい。

鶴松とお拾い兄弟がこんなにも似ていないものか?
秀吉に全く似ていないではないか…と。

秀吉も秀次の子にしては秀次に似てないと勘づきはじめていただろう。

そして、結末はこういう形ではじまった。
4月8日お拾い、はしかにかかる。

それを心配した秀吉は大阪から10日に伏見城へ入り
そしてその2日後12日秀次も伏見城へ入っているのだ。

淀殿は居ないにしても3人が伏見城に滞在していたことになる。鉢合わせだ。

秀吉は秀次とお拾いを横に並べ見比べたことだろう。


秀次
お拾い

全くだ。
誰が見たって親子じゃない。
その前になぜ耳の形が描かれていない?意図的にだよね?

秀吉。。。。確信。
『秀次、どういうことだ!
わしは秀次の子と聞いたのだぞ!
どういうことだ!きさま〜騙したなー!』

もう秀吉の暴走は止まらなくなってしまった。

ということで秀次は伏見城に着いてその当日に逃げたのだろう。聚楽第へ戻っている。

駒井重勝は自身の日記『駒井日記』の中で文禄4年(1595)4月10日の記事の中に前後のつながりを無視して、聚楽第の広さを記している。秀次の祐筆という立場から、秀次と聚楽第の将来が危ういと察したから記録として残しておきたいと思ったのだろう。

秀次はパニックに陥ったに違いない。
「淀殿は私(秀次)の子だと言っていたよな?私に全く似ていないではないか!淀殿に似たといってもここまで似てないはずはない。だから我が娘との婚約も喜んでおったのか!私の子でないなら誰の子なんだ!淀殿!許せん。はめおったな!くそー!子供も淀殿も呪ってやるー!」

きっとこの様に思っていたに違いない。
秀次の暴走も止まらなくなってしまった。

(実際この事件の原因は秀次が陰陽師をつかってお拾いに呪詛をかけたからだと言われていたりする。)


事情聴取がはじまる。
5月21日秀吉と北政所に伏見で能をするから来なさいと秀次呼ばれて行っている。
そこで問い詰められただろう。


もうどうにもならない。
秀次は聚楽第であったことを話した。


秀吉はそれから約1ヶ月間調査にかかっただろう。

そして聚楽第で秀次の妻や側室がこの事件に関わっていたことを知ってしまう。
そう。淀殿の懐妊の仕掛け役は秀次の身近な存在だったのだ。

秀吉はもう止まらない。
キレたら怖しい男上位に入ると思う。
秀吉の虐殺は怖しいのだ。容赦ない。
しかしこの悍ましい始末が仇となって我が身を苦しめたのだと私は思う。


7月3日
秀吉、聚楽第に三成・長盛を派遣し、秀次を譴責。

7月8日
秀吉、秀次の元へ前田玄以らを聚楽第に派遣し、伏見へ来るよう命じる。秀次を伏見木下大膳亮(木下吉隆)の邸にいれる。同日、秀吉は秀次に会うことはなく関白・左大臣の官職を解き、高野山に追放する

7月15日
秀次切腹

8月2日
三条河原で秀次側室・侍女や子ら処刑


秀次の妻妾や子ら38名(39名との説あり)が7輌の牛車で市中引き回しとなる。
死者に着せる白い着物経帷子(きょうかたびら)を着せられ三条河原についた38名は車から引き降ろされ、河原へと引き立てられる。検使役には、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の4人。河原には、高野山で切腹した秀次の首が置かれ、妻妾らはそれぞれに拝ませられた。そして、割竹で作った垣を結った中で、具足に身を固めた河原者たちが、次々と子や妻妾ら刺し殺して首を刎ねていったという。


凄惨極まりない処刑は午後四時頃まで続いた。処刑後、妻妾らの屍は無造作に投げ入れられたという。遺体を引き取りたいというのも叶わず、全員の屍を一つにまとめて簡単な塚が作られた。その名も「畜生塚」「悪逆塚」。あまりの惨さに、『大かうさまぐんきのうち』では「地獄の鬼の責めとはこういうものか」と記録されている。




この秀次事件。あまりにも酷すぎる冤罪があった。
駒姫だ。
彼女の最期を知ると胸が締め付けられる。
引用させて頂いた上のリンクを開いて読んでいただければこの事件の惨さをさらに感じることができると思う。

この駒姫騒動は淀殿にとっても想定外な出来事で女として我が身の罪を感じるひとつになったのではないかと私は思う。淀殿も必死に止めに入ったがその思いは間に合わず虚しく幕を閉じることとなった。

ここから淀殿は更なる決意を胸に覚悟して一生を終えていくこととなるのだ。


話は戻り…

その後秀次の拠点となっていた聚楽第は8月、
秀吉によって徹底的に破却。
そして聚楽第前、秀次が城主となっていた近江八幡山城も廃城となった。

徹底的に秀次に関わるものは排除しなければ気が済まなかったんだろうな。怖しい。



では何故、秀次の妻や側室や側近がどう絡んでいたのだろうか?
そもそも淀殿の相手は誰だったのだろうか?
ということを探っていこうと思う。
(これは記録も文献も何もないただ独自の視点から書いていくので参考程度にとどめていただけたらと思います。)



それは秀吉が野心剥き出しに繰り広げてきた行いが人間の憎しみを生み出し、念の集まりが秀吉自身に降り注いだというのが結論にはなるのだが、
私が思うところでは2つある。

その続きは…次回へ
竹生島⑦に続く。

ここまで読んで下さってありがとうございます😊









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